川又千秋 天界の狂戦士 目 次  1 天界船降臨  2 荒原の放浪者  3 堕天使《だてんし》ヴィダル  4 軍団は西へ  5 泥牛現わる  6 戦鬼の巣窟《そうくつ》  7 包囲網突破  8 猛虎《もうこ》中隊の追撃  9 復讐《ふくしゆう》の神殿  10 超戦士誕生  11 天帝の迷宮  12 楽園の殺戮《さつりく》  13 地下宮襲撃  14 死滅の時  15 狂戦士の帰還  1 天界船降臨  雲ひとつない午後だった。  容赦を知らぬ夏の太陽が、谷底をじりじりと灼《や》いていた。  そこに、八百名余りの男女が、今集められていた。  午前中いっぱいの作業で、すでにあたりの雑木や夏草は刈りとられ、かなりの広さで整地されている。  その広場を半ば取り囲むようにして、彼等《かれら》はただ立ちつくしていた。  それが、病人や乳呑《ちの》み児《ご》などを除く、居留民のほぼ総勢だった。  誰《だれ》もが汗にまみれていた。  風は先刻から動きをとめている。  眩暈《めまい》を誘うほどの草いきれが、谷の一角を埋める彼等を押し包んでわだかまっていた。  耐えがたい午後だった。  しかし、不平はおろか、つぶやきひとつ洩《も》らす者はいない。  彼等はひたすら耐え、そして待った。  長くつらい沈黙の時は、ゆるゆると過ぎていった。  居留民たちの押し殺された期待と不安が、さらに大量の汗となって大地に滴り落ちた。  それでも彼等は耐え、そして待たねばならなかった。  それが定めだった。  今日が、その日だったのだ。  背後の村から、おびえた子供の泣き声が弱々しく聞こえてきた。  しかしそれも長くは続かず、またあたりに、じっとりと重い静寂がよみがえった。  そして、間もなく——  人々はふと、西の方角から、遠雷に似た不機嫌な低音が、急速に接近してくることに気づいて顔を上げた。 「……来た!」 「そうだ……ついに……」  幾人かの男たちがささやき交した、その直後——  微《かす》かな響きは、たちまち、とてつもない轟音《ごうおん》となって、谷間に崩れ落ちてきた。  同時に、叩《たた》きつけるような突風が人々の頭上から襲いかかってくる。そのすさまじい風圧に、彼等はたまらず薙《な》ぎ倒された。  女たちの悲鳴と、男たちの絶叫が交錯した。  人々は両手で耳を覆い、そのまま地面にひれ伏して額を土にこすりつけた。  そして、声もなく祈った。  轟音と暴風はますます荒れ狂う。  人々は今や身をよじり、身もだえ、泣きわめきながら、ただひたすら、その天の暴力に耐えた。  と、荒れ狂うにいいだけ荒れ狂った風と音は、次の瞬間、襲いかかってきたと同じ唐突さで、ふいに熄《や》んだ。  人々はてんでに姿勢を正し、なおも祈りの姿勢で地面にへばりついたまま、それでも恐る恐る空に目をむけた。  その時、太陽の熱波が、巨大な影によって遮られた。  八百余名の居留民全員を、かりそめの闇《やみ》が音もなく包みはじめたのだ。 「……天界船《カーゴ》だ……」 「やってきてくださった」 「……祈りが、とどいたのだ……」  悲鳴とも歓声ともつかないざわめきが、居留民たちの間から湧《わ》き起こった。  天界船は、その巨大な質量を誇示するかのように、なおも居留民たちの上にのしかかってくる。  人々は慌てて目を伏せ、地面に頭を打ちつけて、ことさらの大声で祈りの言葉を唱えはじめた。  そんな彼等の様子を、天界船に乗り組んでいる異形の者たちが、笑いもせず真剣に観察しているであろうことは誰にも想像がついた。  だからこそ居留民たちは、彼等に対して、最も従順な家畜の態度を示し続ける必要があったのだ。  天界の住人は、そうした儀式を、なによりも重要なもののひとつと見なしていた。  天界船の威容に畏《おそ》れおののき、這《は》いつくばる下界民の群……その心がけを、彼等は�忠誠心�と呼んでいた。  逆らうことは、ただ、死滅することだった。  人々は額を地面にこすりつけ、爪《つめ》で砂利をかいて、忠誠の証《あか》しを天界船にむかって叫び続けた。  やがて、満足のつぶやきに似た電子音が、頭上の天界船から微かに響いた。  それを合図に、人々はようやくこわばった姿勢を少し解いて頭上を仰ぎ見た。  そこに、巨大な船腹が見えた。  すさまじい重量を自ら空中に支え、微動もせずに天界船は浮いていた。  祈りの声が、また高まった。  その合唱にうながされるように、巨体の一部が音もなく口を開けた。 (やってくる……降りてくる……)  とりあえずの安堵感《あんどかん》と、また新たな不安が、人々の顔を歪《ゆが》めた。  それでも彼等は祈り、そして待った。  やがて、船腹の閉口部から、まぶしい光が洩れた。  すると、そこから、まるで天界船が生み落とした卵ででもあるかのように、一台の流線形の小艇が滑り出してきた。  それはゆるやかに、見守る居留民たちの頭上を旋回すると、静かに、広場の中央に降下した。  人々は平伏したまま、思わず後退り、なおも祈った。  目に見えぬ力が広場の土と草を巻き上げ、それに支えられて、小艇は重さを持たぬ物のように軽々と着陸した。  祈りの声が自然に消えていった。  地面に平伏する居留民たちは、今や身じろぎすらしない。そのすべての視線は、眼前の小艇にくぎづけになっていた。  ついに、人々が見守る中で、小艇の天蓋《てんがい》がするすると開きはじめた。  無意識のうちに、居留民たちの間から呻《うめ》き声に似たため息が、かすみのように立ちのぼった。  そして、二体の天使《ムーン・エンジエル》が、小艇から姿を現わしたのだった。  天使たちは、いつものように全身を覆う漆黒の鎧《アーマー》をまとっていた。  天界船が地上に投げかけている夕闇《ゆうやみ》のような影の下でさえ、鎧は不気味にぬらぬらと濡《ぬ》れたような光沢を放っていた。  その姿は、見る者を激しい不安におとしいれずにはおかない。二体の天使は、はっきりとそれを意識した身のこなしで、ゆっくりと地面に足を下ろした。そして、一歩、居留民たちの前に歩み出た。  その肩には凶々《まがまが》しいほどに無骨な破壊砲を担いでいる。腰には太い電撃棒まで吊《つ》っていた。  居留民たちの息苦しさは、すでに極限まで達しようとしていた。彼等の生命は、いま、この瞬間、まぎれもなく二体の天使の手に握られていたのだ。  人々の呼吸は、まるで喘《あえ》ぎだった。  二体の天使は、そんな居留民をさらに嬲《なぶ》ろうとするかのように、不自然なほどのろい歩調で、さらに数歩、前に進んだ。  彼等の動作につれて、不気味な意匠の鎧が、滑らかな機械音をたてる。それがまた、居留民たちの不安をさらにあおった。 「ここは、キャンプ夏古《カコ》だな」  顔面を覆う仮面の奥から、電子的に歪められた不吉な声が発せられた。 「そ、その通りです。天使さま。ここは夏古の村、天界の恩寵《おんちよう》をたまわります居留地《キヤンプ》八〇一でございます」  震えを隠すいとまもなく、慌てて申し出たのは、夏古の長老団のひとり、賀三《ガサン》だ。  天使はそれに応《こた》えもせず、鎧を軋《きし》らせて肩から破壊砲を下ろした。  両手でそれを構える。 「おまえたちは、秋を待たずに我々を呼んだ。余程のことなのであろう、天界へと通じる祭壇に鍵《かぎ》を差したのだからな。我々はおまえたち下界民の請いに応じて、こうしてやってきた。そのことの重大さは知っておろう」  抑揚のない天使の声が、居留民たちを、ひと言、ひと言、縮み上がらせてゆく。  耐えきれない者たちは、再び頭《こうべ》を地面にこすりつけて震えはじめる。 「お願いです、天使さま。我が村の窮状を、どうかご理解くださいませ。春から初夏にかけて、この居留地は五度、大がかりな掠奪団《りやくだつだん》や、狂気の遊撃隊に襲われたのです。そのために、警護にあたっていた若者十六名が戦死、そのほか、罪のない女子供が六名までも彼等によって虐殺されました。さらに……」  賀三《ガサン》老人が言いたてようとするのを、天使は、破壊砲のひと振りで制止した。 「おまえたち虫けらのような下界民の生死を、我々が知りたいとでも思っているのか。もうよい、勝手にそうして悲しむがよい。しかし、だからといって、我々をここへ呼び寄せた言い訳にはならぬぞ!」  天使の声音が、凶悪な響きを帯びた。 「お、お待ち下さい。けっして、決してそのような雑事を報告しようと祭壇に鍵を差したのではございませぬ!」  賀三はうろたえきって、悲鳴のように言いつのった。 「……ただ、これまでに、予想もできなかったほど激しい闘いが相次いだことをご納得いただきたかったのでございます。お願いです、お聞き下さい、天使さま。奴等《やつら》の襲撃は、まるで野獣のように獰猛《どうもう》で、執拗《しつよう》でございました。そのために、村の重砲台、それに力線砲などは、まったく砲身を冷やす間もないほど働き続けなくてはならなかったのでございます。どうか、お察し下さいませ。決して、ぜいたくや浪費のためではなく、ただただ、憎んでも憎み足りない外敵との闘いのために、力筒《チユーブ》のほとんどが尽きていったのでございます。それに、彼等は余りにも強力でした。ですから、ある程度の取引というものも行なわなくてはなりませんでした。お許し下さい、ただただ、この村が生き残るために、どうしても必要な決断だったのでございます!」 「賀三の申す通りでございます、天使さま。今や夏古の力筒は、まったく尽きようとしています。このままでは、秋の収穫まで、とうてい生きのびることはかないませぬ。どうか、どうか、御慈悲を!」 「お願いです、天使さま。なんとか、お聞き届けくださいまし」  賀三に続いて、長老団の主だった数人が、天使たちの前に身を投げ出して口々に叫んだ。 「……つまり……」天使のひとりが、のんびりとした口調で応えた。「おまえたちはエネルギー・チューブ、いや力筒を、掠奪団にくれてやってしまったために困っているというのだな? 天帝が、おまえたちに下しおかれた、貴重な力筒を、敵に渡してやったというわけだな?」 「お許し下さい、天使さま!」 「我々は闘ったのです、それもありとあらゆる犠牲を払って抵抗したのです!」 「お察しください、我々には他に道がなかったのです!」  長老団の数人は、もはや自分の身を棄《す》てる覚悟のようだ。  次々に地面を這って天使の足元に近づき、その黒く硬い長靴に頭をこすりつけんばかりにして叫びたてる。 「よい、よい。下がれ、下界民どもめが……」  うんざりしたように、天使のひとりが言った。  足下ににじり寄っていた賀三を、破壊砲の台尻《だいじり》で乱暴に突きのける。 「……そんなことであろうと思っていた。だから、我々はこうしてやってきたのだ」  天使は肩をそびやかすと、手にした武器の砲身で空に浮かぶ天界船のふくれ上がった船腹を差し示した。 「よいか、我々は力筒を持ってやってきた。しかし、よく心せよ。これが今回限りの、天帝の特別のおぼしめしであることを! 天帝は、この居留地《キヤンプ》でできる�紅酒�をことの他《ほか》お好みだ。にもかかわらず、昨年、おまえたちが天界に収めた紅酒の量は余りにも少なかった。確か、その時も、おまえたちは、掠奪団との取引がどうのと言い訳したのではなかったかな?」 「そ、それは……」  慌てて言いつくろおうとする賀三を、天使は足で追い払い、先を続けた。 「まあ、よい。ともかくも天帝はそれをご不快に思われ、おまえたちの居留地に割り当てる力筒の数をお減らしになった。しかし、やはり、それだけではやってゆけぬようだ。だからこそ、我々は、天帝に特別のはからいを申し出、こうして力筒を運んできてやったのだ」  喋《しやべ》りながら、次第に音量の調節を大きくしていったのであろう。天使の声は、ついに割れ鐘のように暴力的な響きとなって、居留民たちをおびやかした。 「分るか、下界民ども! どれだけ我々がおまえたちのことを心に留めているか! それが分るなら、もはや昨年のような失態は許されぬぞ。本年こそは、例年以上に旨《うま》い紅酒を、しかもたっぷりと全《すべ》ての樽《たる》に満たすのだ。よいか! 二度と天帝の御不興をかうような怠慢に走るでないぞ」  もう一体の天使の喉元《のどもと》からも、最大限に増幅された怒声が迸《ほとばし》る。 「あ、ありがたき御慈悲……」 「この通りでございます、どうか、どうか、この下界に、天帝の御力をお授けくださいませ」 「天帝の御力なしに、わたくし共虫ケラは、一日たりとも生きのびることが敵《かな》いませぬ」  長老団が再び地面に平伏して、口々に感謝の言葉を並べたてた。  それに和して、居留民たちの間からいっせいに祈りの声が上がった。  しばらくはその様子を黙って見下していた天使たちだが、ようやく居留民の忠誠心を見届け終えたのか、大きく首を縦に振ると、片手に握った破壊砲を振りかざしてひと声叫んだ。 「静まれ、下界民ども!」 「静まるのだ!」  一瞬にして、広場の居留民たちの間からあらゆる物音が消えた。  その後には、天使たちが立てる、回路によって歪められた嫌な笑い声だけが残った。 「……さて……」  一体の天使が、不気味な仮面に覆われた頭部をぐるりとめぐらして、居留民を威圧した。 「力筒はあの天界船の中だ。それは後ほど授けることとして、今日は女を連れてゆく」  天使は、事もなげにそう言った。 「お、女!?」  賀三が思わず顔を上げ、慌てて訊《き》き返す。 「そうだ、女だ。天帝が、若い娘を三人お望みになっている。三人だけだ。あの船には、それ以上の余裕はない。この居留地から、若く美しい女三人だけが、今日、天界の都へ召されるのだ」  あちこちで鋭く息を呑《の》む気配が拡《ひろ》がった。 「な、な、なんと……それは、また……願ってもない光栄……」  賀三老人が狼狽《ろうばい》を必死で隠そうとしながら、眼前の天使たちにへつらう。  そんな賀三に目を落とそうともせず、黒ずくめの天使は指を立て、広場の一角を差し示した。 「さあ、下界民たち、腰を上げよ。いつまでそこに座《すわ》り込んでいるつもりだ。そうだ、そして女だけ、全員ここに並んでもらう。もちろん、小娘や老女に用はない。女だ、美しい女だ! これより我々が天帝になりかわって、幸運な三人の女を選んでとらせる。よいな。さあ、急げ!」  天使たちが関節部を動かす度に、その漆黒の鎧は耳障りな機械音を発した。  その音を身体《からだ》の各所で連続させながら、二体の天使は居留民たちを追い立てるように左右に分れた。  男たちはよろめきながらも後退してゆく。  しかし、天使の言葉にすくんでしまったかのように、さまざまな年齢の女たちが、どっちつかずの様子でその場にとり残された。 「さあ、急げ! 我々の慈悲が無駄だったと思わせるつもりか!?」  苛立《いらだ》たしげな天使の声が、そんな女たちの心を鞭打《むちう》った。  まず、夢遊する者のような足取りで、数人の女が指示された場所へ歩きだした。  続いて、不安と期待にやや足元のおぼつかなげな二十名ほども、居留民の列から離れはじめた。 「全員だ。このキャンプの女全員のなかから三人を選ぶ。すでに誰かの妻となっている者も天帝は拒まない。天上の都にふさわしい聡明《そうめい》さ、気品、美貌《びぼう》……それが重要なのだ。さあ、早く全員そこへ並ぶように。我々はお前たちといつまでも遊んでいる訳にはいかない。これから力筒の積み下ろしもしなくてはならぬからな」  そう言って天使は腰に吊った重い電撃棒の柄に手をのせた。それは無言の威嚇だった。  回りの者にうながされ、あるいは自ら、さらに多くの女たちが列に加わった。そこには、すでに幾度も腹を痛めている母親までが含まれていた。  若い女の大半が指示された場所に集合したのを確認すると、天使ははじめて満足気にうなずき、手《て》を腰からはずした。 「そうだ。それでいいのだ。この居留地はこれまでも、そしてこれからも天帝《ムーン・ロード》の従順な下僕であるべきだ。いや、むしろそれを望んでいるのはおまえたちの方ではなかったのかね?」  天使は意地の悪い声を出した。 「そ、その通りでございますとも、天使さま。天帝のご助力なしに、わたしどもは一日たりとも満足な暮らしを営めない身の上でございます。まったく、ただ御慈悲におすがりする他、わたくしどもは……」  再び平伏した賀三老人は、なんとか天使たちの機嫌をとり結ぼうと、これまで幾度となく繰り返させられてきた卑下の言葉を連ねはじめる。  しかし、二人の天使はそれを無視して、広場の一角で互いに寄りそいあう女たちの群へ向けて歩きだした。 「……さて、このなかから幸運な三人を選び出すとしよう」  天使のひとりが、つぶやくように宣言した。  反対側に群れている老女や子供、それに男たちは、声もなくこの光景を眺めるばかりだ。  集まった女は百人に近かった。  天使は手真似《てまね》で女たちを一列に整列させた。  そして右の端から順に品定めを開始した。  選択の時はのろのろと過ぎて行った。  黒い鎧の天使ふたりは、倦《う》むことなくひとりひとりの�審査�を続けた。  ひとわたり女たちを確かめ終えた天使は、いっとき二体の鎧を接触させて何事か相談し合う様子だ。もちろん無線の回線で行なわれたその会話の内容は誰にも聞こえてはこない。  天使たちは再び女たちの列にもどり、そしてひとりの若い娘の前で足をとめた。 「女、名前は?」天使のひとりが言った。 「……おお……結《ユイ》と申します、天使さま。わたしの名は結《ユイ》です……」  娘は一瞬、頬《ほお》を真赤に染め、消え入りそうな声でそう答えた。しかしその声には隠しきれない激しい喜びの響きがあった。  天使は小さくうなずいた。 「前に出なさい、結。おまえを天帝の都へ連れて行こう」 「……ああ……」結は泣き声に似た喘ぎを洩らすと、よろめくように列を離れた。  見守る居留民の間からは、怒りともあきらめともつかぬざわめきが起こった。  再び、二体の天使は列に沿って歩き出した。左へ進み、そして立ちどまった。 「女、名前は?」  居留民たちが、今度は、驚きととまどいの声を上げる。  それにかまわず、天使は再び訊《たず》ねる。 「名前は?」  最初に選ばれた結とは反対に、さっと顔から血の気の失せた女は、ようやくのことで口を開いた。 「……わ、わたしは、雷《ライ》の妻、小美《コミ》と申します。どうか、どうかお見逃しくださいませ、天使さま。わたしには夫がおります」  女は哀れなほど取り乱し、その場にしゃがみ込むと、天使の足元にうずくまった。 「……ど、どうか、わたくしごとき者ではなく、若い、美しい娘をお選びください。どうか、どうか、天使さま……」  しかし、天使は仮面の頭部を鋭く横に振った。 「いや、確かにおまえの美貌は天上の都にこそふさわしい。こんな下界の居留地に置いておくわけにはゆかぬ。たとえ、すでに妻となっていようとも、天帝はおまえをお許しになるだろう」  それは断固たる口調だった。鎧が不機嫌な軋《きし》み音を立てて盛り上がった。 「さあ、立ちなさい、小美《コミ》。そして前へ出なさい」  その時である。突如、ひとりの男が居留民の群のなかから躍り出た。小美の夫、雷だ。 「小美ーッ いけない、そんなことはいけない!」  逆上した雷は、しがみつこうとする賀三老人や数人の男たちの手を振り払って、天使めがけて突進した。 「小美ーッ! 帰ってくるんだ!」  と、天使の右腕が、信じられないほどの早さでひらめいた。その指は、すでに電撃棒の作動ボタンにあてがわれている。  足下にひざまずく小美は、その光景を前に化石したように動けない。彼女の口が悲鳴の形に開かれるよりも早く、天使の電撃棒は鋭く発光する棒身を雷《ライ》めがけて突きだしていた。  広場の全員が悲鳴を噛《か》み殺してその場にひれ伏した。  左腕のひじから先を電光の力線によってすっぱりと切り落とされた雷は、広場の砂を巻き上げ、もんどりうって倒れた。  小美がようやく小さな声ですすり泣きはじめた。  苦痛にのたうつ雷は、駆け寄った男たちの手で取りおさえられた。  天使はすぐ雷に興味を失ったらしく、くるりと背を向けて、再び小美を見下ろした。 「なぜに泣く、女!? ただ一度の機会に選ばれ、あの天界の楽園で何不自由ない暮らしをはじめられるというのに、どうして、泣かねばならぬ? さあ、立つのだ、そして前へ出るのだ、小美! おまえが我らの恩寵《おんちよう》を拒むのは、あの夫のためか? ならばこの場で、あの男をこの世から抹殺してもよいが……」  天使はむしろ陽気な調子でそう告げた。 「いいえ! 天使さま」今度は小美が跳び上がる番だった。「わたしは心から、天帝の使いによって選ばれ、天上の都へ召されることを誇りと思います。もはや夫など、わたしは忘れました。わたしは、嬉《うれ》しさの余り、泣いていたのです。わたしはこれから一生、天帝の下につかえます!」  思いがけぬほどしっかりとした声で小美が答えた。その表情には、打って変わった新たな艶《つや》すら見てとれた。  それが夫を死から守るための演技なのか、それとも心変わりのためなのか、人々には見分けられない。 「こ、小美ーッ!」なおも叫び立てようとする雷は、屈強な男たちの手で広場から運び去られた。  その後には血にまみれた雷の左腕だけが無念そうに指をこわばらせたまま残されていた。 「よろしい、女。おまえのその従順な言葉に免じて、あの男の不敬には目をつぶろう」  天使はそう言いすて、小美の前を離れた。 「さあ、あとひとり……あとひとりだけが、我らの都へ召される栄に浴するのだ」  天使はつぶやきながら、女たちの列をさらに左に進んだ。 「……うむ、そうだ……」  二体の天使は再び鎧を寄せ合い、何事か意見の交換を行っている様子だ。  居留民の群は、先ほどの騒ぎが夢ででもあったかのように静まり返っている。  目の前で一瞬の内に流された余りにも酷《ひど》い血が、彼等を完全に麻痺《まひ》させてしまったのだ。  人々はただ呆《ほう》けたように、この陰惨な時間が早く過ぎ去ることだけを願って黙りこくっている。  天使たちはそんな彼等を完全に無視して、慎重に最後のひとりの品定めに専念しているようだ。  やがて、二体は左右に分れ、そのうちの一体が、女たちの列を横に歩きはじめた。  天使が前を通り過ぎるたびに、女たちはさまざまな反応《はんのう》を示してそれを見送った。  ある者はその場に崩れ落ちんばかりの安堵を示し、またある者は、露骨に不運を嘆いて天使をにらみつけさえする。  そんな女たちの心の動きを次々に見せつけられながら、しかし男たちは為《な》す術《すべ》もなく、あるいは肉親を、恋人を、妻を、遠巻きにするしかなかった。  雷のような目にあいたくなかったら、なによりも、そうしていることだった。それが定めだった。  不意に、ひとりの娘の前で天使は立ちどまった。 「あ、あたしでございますか!? 天使さま……」  娘は、あるいはと期待していたのか、はっと瞳《ひとみ》を大きく見開き、表情を輝かせた。 「そうだ、おまえだ」  天使はきっぱりと言った。 「あたしの名は由良《ユラ》、由良と申します。独り身の清いからだでございます。ああ、なんという栄誉でございましょう、天使さま。あたくしは、すべて、おおせのままにいたします……」  訊かれるよりも早く、彼女は小躍りせんばかりの仕草で列を離れると、天使にそう名乗った。 「良い心がけだ、由良」  天使は、ちょっと皮肉っぽい調子で、その小柄な長い髪の娘に答えた。  男たちの群から、怒りとも嘆きともとれる呻き声が聞こえてきた。しかし、もはや、どんな行動も彼等の間からは起こらない。  ともかくも、選別は終った。  そして、居留地《キヤンプ》八〇一|夏古《カコ》は、この先半年ほどの生存を、どうやら約束されたのだ。 「さあ、散るのだ、女たち。おまえたちの居留地の働き次第で、また、こうした機会が恵まれぬとも限らぬ。それは男たちとて同じことだ……」  天使は家畜の群のように動きだした居留民たちに呼びかけた。  女の列も、今や急速に崩れ、彼女たちはてんでに家族のもとへと足早に帰ってゆく。その女たちの間に、ようやく、低い声ながらもさざめきがよみがえってきた。  二体の天使と三人の女だけが、広場の中央にとり残されていた。 「さて、それでは約束通り、おまえたちに天界の力�力筒�を分け与えることとしよう」  選ばれた女を小艇に導きながら、天使のひとりがつけ加えるように言った。  居留民たちはその言葉を聞きのがすまいと一瞬静まり返り、ついでいっせいに、はじめて本物の歓声を上げた。  そのざわめきを背に、天使はまるで犬を呼ぶような気軽な仕草で、広場の上空に浮かぶ天界船に合図を送った。  グルルルルルル……  ドゥルルルルルル……  それに対して、天界船はその質量にふさわしい重く、太い機関音を発して応えた。  そして、居留民をそのまま押しつぶそうと企んでいるかのように急激な勢いで降下を開始する。  人々は、ただちりぢりに、村のある背後の谷間へと逃れ散った。  片腕を切り落とされ、血を流しながら、なおも激しい興奮に囚われて暴れ続ける雷《ライ》も、四、五人の男にはがいじめにされて、近くの小屋の陰へと運び込まれていった。  息を切らし、おびえ、畏れながらも、人々は再び地面に這いつくばり、圧倒的な巨体を降下させてくる天界船の威容に目を見張った。  ズ、ズ、ズ、ズズーン!  大地が上下に幾度も躍った。  下界と天上の都を幾往復もできるという巨大な卵型の天界船である。  そのとてつもない胴体が、今、地響きをたてて、広場の中央に着底したのだ。  衝撃を避けて上空に浮揚していた天使たちの小艇も、この着陸を見届けると、すぐにそのかたわらに滑り込んでくる。  そして小艇の天蓋の内部から、拡大された天使の声が響きわたった。 「さあ、力筒《チユーブ》を受け取るがいい!」と天使は叫んだ。 「……そして、居留地中の機械を回し、灯りをともし、糸をつむぐがよい。穀物を碾《ひ》き、水を汲《く》み、乗り物を動かし、そして敵を屠《ほふ》る武器に力を満たすがよい。さらに、おまえたちが天帝につくす唯一の道、酒造りにはげむがよい。すべては天帝のおぼしめしだ。その計り知れぬ恩寵を忘れた村は、一瞬たりともこの地上に在ることを許されぬのだ。そのことを常に心に留めておくように」  その声が終るやいなや、天界船の船腹の扉が三か所、大きく開かれた。  そしてそこから、先ほどの二体と全く同様な黒い鎧で身を固めた天使たちが、ぞろぞろと姿を現わした。  彼等は、二体の天使が乗ってきた小艇を船内に収容したり、見守る人々に、力筒《エネルギー・チユーブ》の運び出しを指示したり、と動きはじめる。  ようやく呪縛《じゆばく》を解かれた若い男たちが、それに従った。  次第に、ざわざわと人々の間に生気がよみがえってきた。 「天帝《ムーン・ロード》の下僕たちよ」再び一体の天使が、立ち働く人々に呼びかけた。 「今日は、おまえたち夏古の三人の女が、天上の都へ召される栄光を手にした。そしておまえたちがさらに勤勉に、従順に、天帝を畏れ、敬い、精一杯生きるならば、きっといつか、おまえたち全員が天界へと召される日も来よう。さあ、信じるのだ、我ら、天界の神族を。信じ、畏れ、敬まう気持ちさえ変わらなければ、天帝は、いつでも、欲しいだけの力筒をおまえたちにお与えになるだろう」  天使は鎧《アーマー》を軋ませて、片腕で天を示した。 「よいか、あの天上の世界では、毎日、いくらでも力筒が作られている。我らは無限の力《エネルギー》を手にしているのだ。それはまた、同時におまえたちを滅ぼす力でもあることを忘れるな!」  天使は、ゆっくりと首をめぐらして、広場の居留民を見わたした。 「……今宵《こよい》、我が天上の都は真円に光り輝いて見えるはずだ。よいか、畏れを忘れずに。そしてこの三人の女たちが、これからの一生を我らの世界で無上の幸福に包まれて暮らすことを思い、その喜びを同時に自分たちのものとして共に喜びあうように」  天使はようやく喋り終えると、小艇から降り、天界船の扉の陰に立ちつくしている女たちを振り返った。そして不安に身を硬くしている彼女たちをうながして、船内へと姿を消した。  新しい力筒を運び出し、古い空の力筒をかわりに積み込んだ船倉の扉も徐々に閉じはじめた。  人々は天界船を遠巻きにして、再び沈黙した。  残りの天使たちも、やがて全員が乗船を終える。そして最後の扉が、ゆっくりと閉じきった。  と同時に、天界船の内部から猛獣の咆吼《ほうこう》に似た重い震動が湧き起こった。  船の底部が、次第に濃い赤色に染まり、鋭いいかずちのような電光を散らした。  内部の轟音が一段と高まった、と見る間に、天界船はふわりと地上を離れた。  三人の女を新たに呑み込んだ巨体は、今や軽々と宙に浮かび、はるか天空を目指して上昇を開始したのだ。  立ち働く男たちも、しばしその手を休め、深い虚脱感を味わいながら、その姿を見送った。  すでに太陽は西の丘まで傾いている。  風が、思い出したように吹きはじめた。  やがて人々は、広場の中央へと恐る恐る歩み出た。そして、安堵の言葉を交し合いながら、一心に、空へ吸い込まれていく天界船の行方に目を凝らすのだった。  天界船が去ったその広場には、莫大《ばくだい》な重量によって押しつぶされ、もはや地面と見分けがたいほどに形を失った雷《ライ》の左腕が残されていた。  しかし、それを気にとめる者は、誰ひとりとしていなかった。  その夜一晩、村のはずれの粗末な小屋の寝台に縛りつけられたままにされた雷は、苦痛と屈辱に身を灼かれながら、あらんかぎりの罵声《ばせい》を、天界とそして居留民たちに浴びせ続けた。  雷の出血は激しかった。  彼の命が後いくばくもない、と信じた人々は、ただ黙って、彼の乱心を見過ごしにしようと考えていた。  だが、雷は奇跡的に一命をとりとめた。  そうなると、長老団も村人も、彼の存在をそのまま棄てておくことはできなかった。  雷《ライ》の怒りが、また天界の怒りにつながることを誰もが怖れたのだ。  と同時に、雷の失われた左腕は、居留民全員の心の痛みを、常にかきたてずにはおかなかった。  つまり、雷は、夏古にとって許されざる人間となってしまっていたのだ。  そのことを、彼自身がすでに気づいていないわけはなかった。  雷もまた、小美のいないこの居留地に、これっぽっちの未練も残してはいなかった。  彼は家畜のような村人を憎み、そしてそれ以上に彼等を家畜にまでおとしめた天界を憎んでいた。  その雷が秘《ひそ》かに居留地から姿をくらまし、放浪の旅に出たのは、それから二度目の満月の晩のことだった。  2 荒原の放浪者  すでに二日、雷《ライ》は水を口にしていなかった。  喉を少しでも潤せるものといえば、居留地《キヤンプ》を脱けて出た晩、そこから盗み出してきた紅酒が皮袋に半分、それとしなびた果実が一個残っているばかりだ。  だが、そのどちらにも、今は口をつける気にならない。  酒は、いっときの快とはなっても、すぐにより激しい乾きで雷を苦しめるに違いなかった。そして、だとすれば、果実一個はなおさら最後の時のためにとっておかなくてはなるまい。  今となって、雷が唯一望んでいたのは、人間らしい死に方をしたい、ということだけだった。  ただひとり荒野をさまよった末に野垂れ死にすることは分っていても、いや、それが分っているからこそ、雷はいくらかでも満足の気分のうちに死にたいと願っていた。  このまま西へ進んで、ついに、水も、食物も見つけられなかったなら、彼の最期の時は、そう遠いことではないにちがいない。  その時がはっきりと見えてきたなら、雷は皮袋から紅酒を喉に流し込み、甘酸っぱい果実をかじりなから、小さな弾丸発射式の拳銃《けんじゆう》で、自分の生に決着をつけようと決めていた。  しかし、今夜はまだ、それには早過ぎる、と彼は自分に言ってきかせた。  天使《ムーン・エンジエル》によって切り落とされた左腕のつけ根は、まだ時折、激しく痛んだ。  それに耐えながら、雷は右腕だけで苦労して雑嚢《ざつのう》を開き、これも残り少なくなってしまった乾肉や固焼きのパンをとりだす。ひび割れた口の中に無理矢理それを押し込み、何度も何度もしんぼう強く咀嚼《そしやく》し続けるうちに、わずかなから唾液《だえき》も絞り出されてくる。  その感触を生の証しとしてなおも噛《か》みしめつつ、雷は見渡すかぎりの荒原に視線をぼんやりと遊ばせた。  夏古《カコ》の居留地を出発してから五日目の晩だった。  これといった理由もなく、雷は西へ西へと進んできたのだが、村を離れれば離れるほど、ますます緑は姿を消し、大地は乾き荒れ果ててゆく。  得体の知れぬ生き物の姿は何度も目にした。  一度など、真黒な剛毛を逆立てた大型獣の群(あるいは、人間のなれの果てかもしれぬ、と雷はおぞけをふるったものだ)に、半日近くも追跡された。  しかし、その時には、やはり村から盗み出した回転式の小型拳銃が役立った。それを五発、たて続けに発射して威嚇すると、彼等はしぶしぶといった様子で引き上げていったのだ。  だが、ともかくも生き物が徘徊《はいかい》しているのだから、どこかで水場に辿《たど》りつけるに違いない、と考えた雷の期待は、これまでのところ完全に裏切られていた。  今も、雷の視界に拡がっている風景は、大小の岩石が無秩序に転がる灼けただれた灰黒色の大地、ただそれだけだった。  二度と癒《い》えることのないかもしれぬ、これが地球の真実の姿だった。  そんななかで、奇跡的に破滅から免がれ、また天帝の恩寵にあずかって生き残る、孤立した居留地域……一度棄てたその故郷の内懐は、今の雷にとって、すでに無限に遠い所になっていた。  いつの間にか、半月が上がっていた。  雷の憔悴《しようすい》しきった横顔を、そのやわらかな緑色の光が照らし出していた。  静かな晩だった。いや、静かすぎる晩だった。  これまで雷を脅かしてきた野獣の遠吠《とおぼ》えひとつ、聞こえてこない。  雷は乾きの余り、ともすれば麻痺したようになる頭を左右に振って、ゆっくりと美しい夜空を運行してゆく天上の別世界�月�をにらみつけた。  薄いヴェールのような緑色の靄《もや》に包まれたその姿が、今夜はやけに大きく、雷の目に映った。  その暗色の夜の部分にも、あちこちに宝石を散りばめたようにきらめく、さまざまな宮殿や都市の灯が見てとれる。 (あの月のどこかに、俺の妻だった女、小美《コミ》……それに夏古の娘、結《ユイ》や由良《ユラ》が暮らしているんだ……)  いくら自分を叱《しか》っても、夜毎、その思いが雷の胸をきりきりと絞め上げた。 (……小美の目に、この地球はどのように見えているのだろう……)  敵わぬこととはいえ、雷は切実にそれを知りたいと願っていた。  美しい月の都や庭園と比べて、灼けただれた地球の姿は、さぞや醜いものに違いない、と雷は肩を落とす。そして、その醜い大地に、今片腕を失った小美の夫、雷が、こうして独りしがみつき、避けられそうにもない数日先の死を待っていると、いったい彼女は想像できるだろうか……。  それを考えることは余りにも悲惨だった。  しかし、彼は、やはり彼女の今の気持ちが知りたかった。  天界へと召され、それに応じた彼女の本心がどこにあったのか……この期《ご》に及んで、余りにも女々しいと自分で分っていながら、雷はそのわだかまりを忘れるわけにはいかなかったのである。  雷は無意識のうちに、腰に差した小型拳銃を残った右手で握りしめていた。  村を脱けた夜、もっと頼りになる武器を盗み出したかったのだが、力筒を装填《そうてん》する方式の力線砲は小型のものでも子供ひとりほどの重さがあり、今の彼にはとても操作できる代物ではない。結局、彼が選べたのは、大戦前に製造された小型の銃弾式軍用拳銃一丁だけだった。  全く気安めにしかならないような得物だが、それをどうしても持ちだしてきたのは、敵や獲物を倒すためというより、いざという時、自分の苦痛をできるだけ長引かせないで済むように、という考えがあったからに他ならない。  そして、その目的通りに拳銃が使われる日も近いというのに、雷の心の底では、まだ妻、小美への思いと、そして天界に対する憎悪がくすぶっていた。 (あの……あの世界へ行くことができさえしたら……)  月は、まるで手をのばせば届きそうなすぐ頭上を、ただひたすら超然と渡ってゆく。  雷は、やり場のない感情に震える手で拳銃を掴《つか》み出し、その銃口を月へと向けた。 (たとえ、一発でもいい……この銃弾を、あの世界に撃ち込んでから死にたい……)  雷の瞳に、ぼんやりと霞がかかった。  それは、彼の肉体が、ようやく供出することに同意した最後の涙滴だった。  雷は力なく拳銃を下ろし、そして、月光に背を向けてうつむいた。  すると、また眼前には、ただ果てしない荒野だけがあった。  見わたすかぎりの荒原……それはかつての戦場跡だ。  大戦前の地図を信用するなら、一帯は美しい森林都市だったはずだ。しかし十年以上にわたった全世界規模の泥沼のような狂気の殲滅戦《せんめつせん》を経て、もはやその面影は地形にすら残っていなかった。その十年間に三度、ここを舞台に機甲師団の全面衝突があったからだ。  長い闘いに全世界は破滅寸前まで疲弊した。放射能に深く犯された大地は、例外的な小地域を除いて、数世紀の間よみがえる力を失っていた。人類にとって、より致命的な問題はエネルギーだった。戦争は実に莫大なエネルギーを一瞬のうちに消費する。大戦前から危機が叫ばれていた石油資源は、開戦から数年を経ずに底をついた。互いに敵国の有力な産油地にICBMの雨を降らせたのだから、そうでなくとも先の見えていた石油資源はひとたまりもなかったのだ。  代替エネルギーの開発も、その頃《ころ》すでに思うにまかせない状況だった。それより両陣営は、とにかく手持ちのエネルギーと武器で、一刻も早く相手を叩きふせようと血まなこになっていたのだ。  しかしやがて、人々は、自分たちが、互いに破壊しあった文明を二度と再興する力のない状態にまで落ちこんでしまっていることに気づかなくてはならなかった。  何もかもが、我にかえった時にはすでに喪《うしな》われてしまっていたのだ。  開戦後十年|経《た》って、大戦はなしくずし的に終結した。もはや国家規模の戦闘を組織し維持できる力は、どこにもなかった。  世界が全体として、一体今どうなっているのかを知る者すら、ひとりとして居なくなったのだ。  そして、灼けただれた地球にかろうじて残された生存可能地域に集められ、生き残った人々も、自分たちがしがみついているテリトリイを決して離れることができなかった。人間を養っていける生産力を持つ大地が、それほどに少なかったからだ。  雷が後にした夏古の村もそんな居留地のひとつだった。  その小さな谷は、奇跡的に放射能をはじめとするさまざまな戦争の害毒から見過ごされた地帯だった。そこには未《いま》だに、戦前を思わせる緑があり、豊かで清浄な泉が湧いた。しかし、それも、ただその一角だけのことだった。一歩谷を出れば、見わたすかぎりの荒野がこのように周囲を完全にとりまいていた。だから人々は、決してそこを離れることができなかった。離れることは、死を意味した。  …………  地球全表面が、彼我入り乱れての戦場と化したのに対して、すでに一万人近い基地植民者を持つまでに開発の進んでいた月世界は早々と中立を宣言して、大戦に対する超越的立場を明確に打ち出した。  そして各国はむしろこの宣言を歓迎し、尊重した。その理由は次の通りだ。  まず第一に、月はある意味で無数の宇宙母艦と言えたから、これがどちらかの勢力の支配下につくとなると、状況がにわかに一方的となる。重力の小さな月は、地球の好きな場所に、いつでも大型弾頭を叩きこむことができ、また反対に、地球の大重力をやっとのことで突破してくる月への攻撃を比較的容易に迎撃できた。つまり、大戦に介入してくるには余りにも強力すぎる基地だったのだ。  第二の理由は、より全人類的視野に立ったものだった。即《すなわ》ち、各国の指導者たちは、悪くするとこの大戦が人類の絶滅につながりかねないことをかなりの確度で理解していた。そこで、すでに自給自足の態勢を固めつつあった月基地だけは大戦の埒外《らちがい》に置き、その万一に備えようとしたのだ。  これにはもうひとつ、それぞれの国の支配者階級の利己的打算も含まれていた。  彼等は、いよいよという場合に備えて、自分たちの避難所たり得る世界を残しておきたかったのである。  実際、それは、大戦末期、大国の指導者や実力者の多くが、なけなしのロケット燃料をかき集め、大挙して月面へ逃れ出たことによって明らかとなった。  両陣営の大物たちは、結局月面で握手を交し、最終的な和解に到達した。  これはそれぞれの国家にとっても、また人類にとっても、まさに許しがたい裏切りだった。  しかし、すでに地球には、その裏切りを非難できる状態にある国民は存在しなかった。  その多くは死亡していたか、または死に瀕しており、最も幸運な者でも、敗残兵もしくは難民でしかなかったからだ。  その結果が、現在の月世界をつくり上げる礎《いしずえ》となっていた。  世界的な頭脳や、権力者、指導層など、つまり選ばれた者だけが月という別世界に集中して丸ごと生きのびた。  彼等はあらゆる意味において、貪欲《どんよく》で、無慈悲で、しかも有能だった。  彼等にとって、灼けただれた地球はもはや還るべき故郷ではなかった。  彼等は、自分たちが棄ててきた土地や人間を顧みることもせず、ひたすら、その新世界を、自分たちだけの楽園へと精力的に改造していったのだ。  飽くなき欲望と、そしてそれを支え得る最高度の頭脳と技術が、ごくごく短期間のうちに、月をみちがえるような、文字通り天上界へと変化させていった。  もちろん、既存の技術体系に加えて、月面では数々の新たな発明、革新が行なわれていった。  なかでも、月世界の楽園化に根底から貢献したのは、東洋人科学者のグループが完成、発展させた太陽エネルギーの直接変換=蓄積技術だった。  こうした試みは、大戦以前から各国で続けられていたが、そのグループが創《つく》り上げたLN素子は、変換効率を九十%近くまで高めることに成功し、しかも安定した蓄積システムとの連動を実現したのだった。  これにより、月世界は、ほぼ永久的に無限のエネルギーを確保できることとなった。  そしてこのシステムこそが、大戦後の月と地球の関係を決定づけるに至るのである。  まず最初に、月面の各所に出現したのは、LN素子を利用したエネルギー基地だった。  ついで、そこから得られる無尽蔵のエネルギーが全月面バリヤー構想を可能なものとし、月は、その緑色の美しいヴェールですっぽりと覆いつくされた。  やがて、月の住民たちは、地下ドームの生活と訣別《けつべつ》し、むきだしのクレーターや荒涼たる砂の海を、緑の山野へとつくり変えていったのだ。  バリヤーによって実現した月面の完全コンディショニングが、この不毛の衛星を一変させた。ちょうど大戦が、地球の環境を一変させたのと、それは余りにも対照的な結果だった。  しかも、それはどららも、同じ頭脳によって企てられ、そして実行された、その結果だったのである。  地球世界に放置され、そしてなお生き残らなくてはならなかった人々は、そのことを知っていた。そして、それを憎悪した。しかし、憎悪をぶつけるには、相手は余りにも天高く住み、そして無敵の力を独占していた。  月という死の世界を、この世の楽園へと改造した技術を、たとえ一端でも彼等が地球へと持ち帰ったなら、この荒廃した環境を同じく蘇《よみがえ》らせることは容易だったに違いない。  だが、月の住民たちは、その圧倒的な特権を手放す気持ちを全く持っていなかった。  そして、悪夢そのままの、支配と従属の歴史がはじまったのだった。  月世界の住民たちは、地球の状況が終末的局面を迎えはじめた頃から、わずかに各地に残された生存可能地域を選んで、積極的な居留民づくりを進めてきた。  健康な生き残りの人類をそうした地区に寄せ集め、一定の保護と生活を維持するのに必要なエネルギーを供給していったのだ。  人々はなによりもまず、生きなくてはならなかった。  そのためにはまず、生きるための、健康な土地が必要だった。  そして、今も荒れはてた戦場を幽鬼のようにうろつく掠奪団や遊撃部隊からその土地を守るための武器、それを稼動させるためのエネルギーを手に入れなくてはならなかった。  さらに、明りを灯し、機械を動かし、水を汲み、農作業を行なうためには、唯一のエネルギー供給源である≪月≫に従属する以外、道はなかったのだ。 ≪月人≫たちの世界にも、徐々にではあるが、明確な階層社会が形造られていった。  それも、エネルギー供給の秘密を軸としたものであり、最初のLNシステム開発グループを核とした指導者階級は≪天帝≫を名乗り、彼等の軍隊たる≪天使≫や、その他の月人の上位に君臨した。  そして、天帝と天使は、彼等の保護領たる居留地の地球人に、神とその下僕という関係を強要したのだ。  反逆する居留地は容赦なく抹殺された。  一方、忠誠を忘れない居留地には、それに見合ったエネルギーが≪力筒《チユーブ》≫という形で分け与えられた。  月人たちは力筒とひきかえに、各居留地の特産物や、さらには若い女、男などを、天界へと召し上げていった。  同じ居留民でも、世代が進むに従い、そうした支配と被支配の関係をしごく当然のものと受けとめるようになっていた。  夜毎、月は、そのあでやかな姿を地上の人々に見せつけた。  そして、天界の都への憧れが、厳し過ぎる日常にとっての、唯一の安らぎにすらなりつつあった。ことに女たちは、決して夢物語ではなく現実に頭上で輝く天上界への思いを、つのらせないではいられなかった。  …………  だが、今や雷《ライ》にとって、月は全くの憎悪の天体でしかなかった。届かぬ復讐《ふくしゆう》の思いだけが、その緑の楽園に向けられていた。 (……小美《コミ》……)  また、美しかった妻の名が、雷《ライ》の脳裡《のうり》に泡のように浮かんだ。  けぶったような黒い瞳……甘い匂《にお》いを放つまっすぐにのびた長い髪……そして、なにものにも増してやわらかだった肉体……。  まるで泥のようにざらざらと苦い口中の粘液を、雷は無理矢理、喉の奥に流し込んだ。 (……あと半日だ……)雷はそう思った。(この乾きに耐えられるのも、あと半日そこそこだろう……)  居留地から持ち出してきた大戦前の地図を信じれば、この先、少しのところで、渦《ウオ》川の支流にぶつかるはずだった。  それが今のところ、彼の唯一の希望だった。  その川がすでに蒸発して跡形もない可能性は余りにも大きかったが、それを心配したところで、この最悪の状況が変化するわけではない。 (ともかくも……水だ……そして獲物だ……)雷は、雑嚢《ざつのう》を枕がわりに、ごろりと岩陰に横たわった。(今は……まだ、死ねない……死にたくない……)  憎悪だけが、彼の気力を賦活させていた。  だが、かえってそれが彼の眠りを妨げてもいた。  さらに、全身が疲労と飢え、そして乾きに悲鳴をあげている。  幾度も幾度も、彼は目蓋《まぶた》をきつく閉じ、そして痛む身体で大地を輾転《てんてん》とした。  しかし、そんな彼に眠りはやってこない。  雷は不眠との闘いをひとまずあきらめ、目を開いて、ぼんやりと夜空を見上げた。その時である。  彼の視野の隅を、なにかが光りながら横切った。 (流星か?……)  彼は片手だけで苦労して半身を起こすと、その方角に頭をめぐらす。  と、その光はなおも空中にあって、しかも高速で雷の横たわる方角めざして近づいてくるではないか。 (いや……あれは、天界船だ! 天界船が翔《と》んでくるんだ!)  雷は思わず岩陰に身体を隠した。  そして、ふたつの目玉だけをその後からのぞかせ、船腹を不気味に赤く発光させながら夜空を行く天界船の姿に見入った。  それは、まるで雷をめざしているもののように、ゆるやかに旋回しながら、こちらに近づいてくる。 (何だ……何をしているんだ、こんな夜中に……しかも、この荒れはてた原野で……)  雷は不安と好奇心の入りまじった気持ちで、天界船の動きを目で追った。 (まさか、俺を探しているんではあるまいな!)  一瞬、そんな自分の考えに身を固くした雷だが、彼のような虫けらを、天界の住人が気づかうわけもないと思い直す。  その間にも、天界船はぐんぐん雷の潜むあたりに向けて高度を下げてきた。  グルルルルル……  ドゥルルルルル……  風にのって、重々しい天界船の機関音までが聞こえてくるようになる。 (降りてくる!……天界船が降りてくる!)  雷は胸のうちで声にならない叫びを上げた。  今、彼が見守るなか、やや小型と思える一隻の天界船は、ゆっくりと空中で動きをとめ、そのまま垂直に降下を開始したのだ。  それも雷の隠れている岩のすぐ先、石を投げれば届きそうな距離だ。 (…………!)  雷の全身が小刻みに震えはじめた。  これから何が起こるのか、何がそこで行なわれるのか、彼には全く見当もつかなかった。  雷はただひたすら夜の底でその光景に目を奪われていた。  ズ、ズン!  大地を軽く震動させて、天界船は着底した。  と、すぐさま、下部の扉が大きく開く。そこから、まぶしいほどの照明が流れ出し、雷は掌をかざして内部をのぞきこんだ。  すると、すぐに、数人の人影が光の中から立ち現われてきた。  彼等はひとかたまりになって何かをかついでいる。  彼等とは、もちろん、あの黒い鎧《アーマー》をまとった天使たちだ。  雷は洩れそうになる悲鳴を必死でこらえ、腰の小型拳銃を握りしめて激情に耐えた。  天使たちは互いに声をかけあいながら船外に降り立ち、そのまま二十歩ほど離れた地点まで歩いて、かついでいた荷物を地面に下ろした。  そして、足早に、天界船へと引き返してくる。 (…………?)雷は、彼等が地面に置き去りにしたものに目をこらした。  それは夜目に白っぽく、そして細長い物体のように見えた。  その間に、天界船の扉が音もなくしまりだした。内部のまぶしい光も、それにつれて遮られる。  と、その時、雷は唐突にその物体の正体に思いあたった。 (に、人間だ! 裸の人間だ、まちがいない!)  グルルルルルルル……  雷の驚愕《きようがく》を嘲笑《あざわら》うかのように、天界船の機関音が高まった。  そして、それはふいと空中に浮かび、次の瞬間、急激な加速で、ほぼ垂直に星空へと急上昇してゆく。  雷はすぐにも駆け出したい自分の気持ちを無理になだめて、その天界船の姿が見えなくなるのを待った。  彼等が大地に棄てていった人体らしきものは、まだぴくりとも動かない。  それと、夜空に吸い込まれてゆく天界船の赤い発光部とを忙しく見比べながら、雷は待った。  ようやく、天界船は、星空の中に完全にまぎれこんでいった。 (もう、大丈夫だろう……)  雷は拳銃の引金に指をあて、慎重に岩陰から立ち上がった。  まだ沈みきらぬ半月のおかげで、あたりの様子はよく見える。  雷は、一歩一歩、その白い裸体に近づいていった。  それは男だ。  しかも、かなりの長身だ。  雷がはじめ、すぐに人間と気づかなかったのも、その人並みはずれた身長のためだった。 (大きな男だ……まるで、天使たちほどもある……)  そうひとりごちて、雷はびくりと足を止めた。 (天使!?……ひょっとして、この男は……)  最後の数歩を跳ぶように走って、雷は男に駆け寄った。  男はそこに横たえられていた。  固く目蓋を閉じてはいるが、胸を大きく上下させているところを見ると死んではいない。  男は何ひとつ身にまとってはいない。全裸だ。ただかたわらに、金属製の物入れらしいものが置いてある。それも、天使たちがいっしょに運んできたものであろう。  雷は恐る恐るひざまずき、拳銃を腰のべルトに差すと、男の胸に手を置いてみた。  びくっ、と男の身体が痙攣《けいれん》した。  雷は慌てて手を離し、今度はゆっくりと男の全身を観察してみた。  見れば見るほど、それは異様な裸体だった。  干した麦のような色の短い髪、そして月光のためか全く血の気を感じさせない青白い肌……深く落ちくぼんだ目元から、鋭く高い鼻の造作まで、男のあらゆる特徴は、雷にとって馴染《なじ》みのない人種のそれだった。  しかし、本当に異様だったのは、そうした個々の点ではなかった。  眺めるうち、雷はそのことに気づきはじめた。  男は大変な長身だった。  しかし、すらりとした肉体は、決して均整を失ってはいない。むしろ、非常にしなやかで美しい肉体と言えた。  しかし、異様さは、まさに、その美しすぎる肉体にあったのだ。  男の身体は、全体に、余りにもしなやかで、滑らかに見え過ぎた。 (まったく……なんて男だ、こいつは……)  雷の心の中で、自分でも掴みきれない混乱が拡がっていった。  それもそのはずだった。  男の肉体には、およそその長身に似合う筋肉というものが感じられなかったのである。  女よりもなお柔らかな肉をまとっただけの男……。  雷は、気味の悪いものに触れてしまったかのように、しきりに手の平を衣服で拭《ぬぐ》った。  その男の姿形は、低重力下で暮らす月人の典型的なものだった。  しかし、雷がそのことを知るはずもない。  彼は、時折苦しそうに顔をしかめるその大男を見下ろしたまま、ゆっくりとその長身の回りを歩いて、今度はかたわらの金属の箱に手をのばした。  それには簡単な止め具がついているだけだったから、雷は難なくそれをはずし、箱の覆いを押し開く。  次の瞬間、雷の両目が、まるで夜行獣のように光った。 (み、水だ! それに、食い物もあるぞ!)  叫ぶより先に、雷の右手はそこに突っ込まれていた。  まず彼は、半透明の水筒を掴み出すと上蓋《うわぶた》を歯でかじりとり、あふれ出る冷たい水を一滴もこぼすまいとむさぼり飲んだ。  ひと息に容器の半分ほども飲み干すと、今度は猛烈な空腹感が襲いかかってくる。  雷は手当り次第に、箱のなかの包みを掴み出しては引き破り、味わうひまもなく、それらを呑み込んでいった。  余り急激に食物と飲料をつめこんだためか、雷は一時気分が悪くなり、胃のなかのものを全て吐きもどしそうになるが、口を手でおさえて必死に耐える。  そして、それが少しおさまると、また彼はむさぼり食った。  手と口が疲れ切ってしまうまで、彼は飲み、そして食い続けた。  そしてようやく、彼に理性がよみがえってきた。  いま口にした食物のどれひとつとして、彼がこれまでに味わったことのないものであることを振り返る余裕が、彼に生まれたのだ。  雷の咀嚼音《そしやくおん》が、次第に弱まった。  その時である、雷の耳が、何かを聞いた。 「……ウウ………ア……」  雷のあごが、ぴたりと動きを止めた。 「……ウ……ククク……」  今度ははっきりと声が聞こえた。  雷は発作的に後へ跳びすさり、そして腰の拳銃を一挙動で抜いた。  そして、雷は男を見た。  雷の凶暴なふたつの目と、男の見開かれた青い目が、正面から見つめあった。  危うく引金を絞りそうになった雷をかろうじて押しとどめたものは、その男の、余りにも澄んだその瞳だった。それが、二人の出会いだった。  3 堕天使《だてんし》ヴィダル  雷《ライ》の手が、発作的に腰の小型拳銃を掴んだ。  すでに失われて久しい左腕までが、驚きのあまり、彼の頭のなかで仮想の反応を示して身構える。思わず、その左腕で身体のバランスをとろうとした雷は、ぶざまにも数歩、後によろけた。  そのことで、雷の頭に血がのぼった。  男は相変わらず、いっぱいに見開いたふたつの目で、雷のそんな独り芝居を凝視している。  男は微《かす》かに身じろぎした。しかし、雷の銃口を前にして、逃げようとも、起き上がろうともする気配を見せていない。  ただ、空を渡る月の光を吸収したかのように澄み切った目で、ひたすら、雷の動きを見つめ続けている。 (くそっ……)  よろめく自分に向けられているその視線が、雷には耐えられなかった。  片腕の、しかも汚れきったボロをまとう自分の姿が、相手の目にどのように映じているか、そのことを思うのが耐えられなかったのだ。  引金にかけられた雷の指に、思わず力がこもった。  男はなおも、雷に対して感情の見えぬ視線を向けている。  裸体とはいえ、そのなめらかすぎる全身は、雷の姿と比して、余りにも美しかった。  そればかりか、緑色のやわらかな月光が、闇《やみ》の底に横たわる男の裸体の起伏に、一種近寄りがたいほどの冷たい艶を与えていた。  それが、雷の心をさらに傷つけた。 (くそ……くそっ……)  わけの分らぬ激情に駆られて、雷は心の中で自分に向かって毒づき、震える手で、男の胸に銃口を擬した。 「お、おまえは、何者だ……くそっ、殺してやる!」  自分の混乱を見透かされているような焦慮を覚えて、雷は怒鳴《どな》った。 「な、何者なんだ、おまえは! 何とか言ったらどうだ……撃つぞ、撃ち殺すぞ!」  雷は、さらにわめいた。  しかし、雷はついに引金を引き絞ることができなかった。  彼がどう挑発しようと、男の目に一片の敵意も、恐怖さえも現われないばかりか、そこに余りにも深い悲哀の色が読みとれたからだ。  それが、最後の一線で、雷を押しとどめた。 「…………」  雷は、自分に対していたたまれなさを感じ、そして沈黙した。  そして短い時間が流れた。  と、男が口を半分開いた。そして喘《あえ》いだ。  男の胸から下腹にかけてのしなやかな肉が、それにつれて痙攣した。  それでも、男は目瞬《まばた》きひとつせず、雷を見つめ続けていた。  不思議な、そして静かなにらみあいが続いた。  ついに、雷は、ゆっくりと銃口を下ろした。  得体の知れぬ相手に対する警戒はそのままに、一歩、また一歩と、雷は男のかたわらに近づいた。  そして片ひざを地面について、しゃがみこむ。 「……おい、何とか言ったらどうだ……え? 口はついてるんだろう……それとも、言葉を知らないのか……どうなんだ、おい……」  雷は独り言のような口調で、男に話しかけた。  男は見かけの静けさとは裏腹に、速い息をついていた。青白い皮膚の下で、心臓が音をたてて動悸《どうき》を打っているのも分る。 「……どうしたんだ、おい、苦しいのか?……どうなんだ、俺にして欲しいことがあるのか?……」  男の様子に、すっかり毒気を抜かれた雷は、そう言いつぎながら、ピストルを腰のベルトにもどし、恐る恐る右手を男の胸にのばした。  雷の手が身体に触れると、男はぴくりとそこを震わせたが、それ以上はなすがままにまかせている。  男の身体《からだ》は、氷のように冷えきっていた。  夏とは言え、荒原の夜は寒い。  その体温の低さが、雷には危険なほどに思われた。 「おい、寒いんじゃないのか……おまえ、そのままじゃ、黙ってても死んじまうぞ」  雷は言うと、あたりを見回した。  雷には、男の荷物を勝手にかきまわし、その食料や水をむさぼってしまった負い目があった。  それに対して、非難めいた表情をいっさい見せない男が無気味だった。  と同時に、そんな男の態度が、雷の心をいつしか優しいものにしていた。  雷の視線が、また、あの金属製の箱にとまった。 「……よし、分った……いま、何か身につけるものを探してやる。確かあの中に、まだ何か入っていたようだ……」  言いわけがましく雷はつぶやくと、男を視界の隅に捉《とら》えたまま、その箱ににじり寄った。  そして、自分が食い散らかした後をそっと片づけながら、その中を探った。  すぐに、柔らかな布のようなものが手に触れる。  雷はそれをひっぱり出しておいて、さらにその奥を探った。  すると食料などの包みの下から、用途の知れぬいくつかの器具が見つかった。  雷はそれも箱から出すと、ひとつひとつ地面に並べてみた。 「……なんだろう、これは、いったい……」  雷は眉《まゆ》を寄せ、しばらく考え込んだが、すぐに男のことを思い出し、布片だけをとりあげて男に示した。  男はやや苦し気に顔をしかめながらも、わずかに頭を動かしてそれにうなずく。  それは非常に薄い生地で作られた下着のように見えた。  雷は、男の裸体にややたじろぎを感じながら、彼の目前にそれを差し出した。  男の手が、はじめて動いた。  雷が差し出す布片を受け取ろうと、男の手が地面から持ち上げられたのだ。  しかし、その腕は、目的を果たす前に、ばたりと力なく地面にたれた。  男の呼吸が、またさっきより荒くなったようだ。  男は本当に弱りきっているようだ。身体を起こすどころか、腕を上げることさえままならぬほど、体力が失われてしまっているらしい。  それを悟って、雷は舌打ちした。  しかし、ここまでして放っておくことはできない。  雷はその薄い下着様の布切れを広げ、苦労して男の身体に着せてやった。  片腕の雷にとって、それは考える以上に困難な作業だった。  男の長い足を交互に肩で支えて下ばきをはかせる。あるいは、上半身にシャツをかぶせる時は、両足の指まで使わねばならなかった。  雷が力をいれて男の身体を動かすたびに、男は苦し気に唸《うな》った。  男のきゃしゃな骨と肉は、まるで若い竹の枝のように軋《きし》んだ。  しかし、男は歯を食いしばり、雷の扱いに耐えていた。  ようやく下着をつけ終えた時、雷も男も汗を流し、呼吸を乱していた。  しかし、雷の熱い汗に比べて、男の汗はあくまでも冷えたままだ。  雷は深呼吸しながら自分の上着を脱ぎ、再び地面に横たわった男の上にそれをかけてやった。  苦しい旅の汗とほこりで、その上着は汚れきっており、異臭すら放っていたけれども、男はそれを気にするふうもなく、じっと雷を見つめ返した。  その目の奥に、純粋な感謝の気持ちが秘められているのを、雷はそれとなく感じとっていた。 「まあ、いいってことよ……」雷はつぶやくように言った。「おまえさんの食料をいただいちまったんだ。これで貸し借りなし、そういうことにしようぜ。な、いいだろう……」  雷は照れたように男から目をそらし、さっき彼が箱の中から取り出した幾種類かの器具に手をのばした。 「しかし……おい、こいつは、いったい何の機械だ……俺には、さっぱり……」  雷は重さを計るように、そのひとつひとつを持ち上げてみた。  そのなかのひとつは、明らかに武器、それも拳銃のように思われた。  雷が持っている大戦前の銃弾発射式銃とは恐ろしく異なった形状をしているが、握りや、引金にあたるらしい突起物の位置は似ている。  雷は不意に、同じような器具を、天使《ムーン・エンジエル》が腰に吊《つ》っているのを見たことがあるのを思い出して顔をしかめた。  この男を、地上に放り出していったのは、まぎれもなく、あの天界の住人たちだ。  その事実ひとつでも、男の素姓が、天界と全く無縁だとは考えられない。 (この男……鎧《アーマー》は着ていないが、天使の仲間なのか……)  疑惑に曇った目で、雷は男を振り返った。 (……しかし、それにしては、余りにもこの男、弱々しすぎる……)雷は考えた。(あの怪物のように強大な力を持った天使が、地上から起き上がることもできないなんて……)  雷は男を眺めやり、首を振った。 (それとも、この男……なにか、ひどい病気にでもかかっているのだろうか……そうかもしれない……いや、そうにちがいない……その病いのために、仲間から見棄てられたのかもしれぬ。そうだ、きっと、そうだ……この男は、病んだ天使なんだ)  男に関して、雷の頭の中で、やっとひとつの回答が形造られはじめた。 (そうだ、そうに違いない! この男は、あの天使の仲間なんだ!)  そう思い至ると、雷の目が急に険しくなった。  雷はゆっくりと立ち上がりながら、男をにらみつけた。  急に、ひじから先のない左腕が鈍くうずいた。 (くそっ……どうしてでも、おまえの正体を確かめてやる! そして、そして……)  しかし、それからどうしたらいいのか、雷には、はっきりと分らなかった。  天使に対する恨みを、この男に対して晴らすにしても、今、目前に横たわる男は、余りにも無害な様子でありすぎた。  その男ひとりに怒りをぶつけてみても、雷の精神の奥深くまでしみこんだ憎悪が軽くなるとは、とても思えなかった。  雷は次第に沈みかかる月を地平に探し、そして、その淡い輝きと男の顔を見比べた。 (確かに……この男、ただの地上の人間ではない……くそっ、どうして、しゃべらないんだ!? 言葉が分らないのか?……)  雷は苛立《いらだ》たし気に、唇を噛《か》みしめた。  その時だ、雷は、男が目顔で、雷に何かを訴えかけているらしいことに気がついた。  男は、雷が地面に並べた器具のひとつをじっと見つめ、それから視線を雷にもどして、目瞬きを繰り返す。それからまた、器具を意味あり気に見つめるのだ。  それはどう見ても、雷に対する合図だ。  雷は口をとがらせ、大またに一歩、箱と器具が置いてある場所に近づいた。 「なんだ!? なにをしている。これを、とって欲しいのか?」  雷は、警戒の気持ちを口調に表わしながら、そう問い返した。 「……Oui……Donnez-moi……Sil……」  男の口から、ついに、か細い声が洩《も》れ出した。しかし、それは雷にとって全く耳慣れぬ言葉だ。  雷が疑い深げに顔を歪《ゆが》めると、男は苦労して片方の手を持ち上げ、その人差し指を雷の足元の器具に向けた。  男の顔に、ようやく必死の形相が浮かんだ。 「……Please……Give me that……」  男が、また訳の分からぬ言葉を吐いた。  雷は、男の顔から目を離さず、ゆっくりとしゃがみこむと、男が指差したと思われる器具を手で掴んだ。 「これか? これが欲しいのか?」  雷は、それを男の目の前にかざして訊《き》いた。  男は、呻《うめ》き声を洩らしながらも、しきりにうなずき、片手をそれにのばしながら、必死で身体を半転させようとしはじめる。 「おまえ……まさか、これは武器じゃあるまいな……」  雷は男の手から逃げるように半歩退き、器具を月光にかざしてつぶやいた。 「こいつをおまえに渡すと、たちまちおまえは起き上がって、俺に襲いかかってくる……そんな機械なんじゃないのか?」 「……Prego!……Dor favor……」  それを渡すのをためらっている雷に、男はなおも言いつのった。  そしてついに、上半身を半ば地面から持ち上げるようにして訴えかけてくる。 「……うーむ……」雷は考え込んだ。男の様子からして、その装置が非常に重要なものであることは明らかだった。男の生存にとって、いま現在、不可欠のものかもしれない。雷がしぶっている間に、男がそのまま死んでしまう、といったことも考えられないではなかった。  もしそうなれば、雷が男の正体を訊きだす機会は永遠に失われてしまう。  雷は迷った。  しかし、迷いながらも、しぶしぶ、男にその器具を差し出していた。 「いいか、おまえ。もし、おかしな仕草を見せたら、俺はすぐにおまえを殺す、分っているな!」  雷は手に握ったその器具で、腰に差し込んでいる小型拳銃を叩《たた》いてみせた。 「いいな! こいつで、おまえを殺ってやる……分ったな?」  雷は慎重に手をのばし、地面からようやく半身を起こして震えている男の側へ、その小さな器具を放ってやった。  そしてすかさず、腰から拳銃を引き抜く。  彼は、そんな雷の動きにかまわず、いざるように地面を這《は》って装置にとりついた。  青白かった男の顔にも、はじめて赤味らしいものが浮かんできた。 「……アウ……ウグ、ムムム……」  男は呻き声を上げながら、再び身体を地面に横たえると、両手を使ってその装置を自分の喉《のど》のあたりに持っていった。  そして、その表面についているツマミを、カチ、カチ、と回転させてゆく。  調節ができたのを確認すると、男は装置の側面から細長いヒモのようなものを引き出し、その一端を耳に押し込んだ。  そうしておいて、装置自体を喉元にぴったりと押しつけた。 「……おい、それは……」  見守る雷がそう言いかけた時である。  突然、その装置から音が洩れた。いや、それは声だった。言葉だった。 「……ありがとう、キミ……済まんが、ついでに、水をひと口飲ませてくれ……それから、ゆっくり話そうじゃないか……」  男の口が動いている。  そして、それにつれて、喉元に押しつけられた装置から、雷たちの言葉が、はっきりと聞こえてくる。  雷は息を呑《の》んだ。  そして、激しく背筋を震わせた。  それは、ほとんど本能的とも言える反応だった。  なぜなら、装置から発せられたその声は、まぎれもなく、あの天界の住人たちの声、天使が鎧の奥から発する、どこか歪められた、不気味なあの声に違いなかったからだ。 「……や、やはり、おまえは……」  雷の頬《ほお》がひきつった。  そして無意識の内に、彼の殺意が、残された右腕に流れ込んでいった。  拳銃の銃口が、男の眉間《みけん》を求めて、独立した生き物のように鎌首《かまくび》をもたげはじめた。 「待て! 待ってくれ………」  男の装置が、また言葉を吐いた。 「撃つなら撃ってもいい……どうせ、わたしは、この地上では生きていけない人間だ。ひと思いに殺された方が、どれほど楽か……だが、お願いだ。ひとくちだけ、水を飲む時間をわたしに残してくれ。あそこからここまで、わたしは水一杯与えられなかった……死ぬほど、いや、死とひきかえにしたいほど、わたしの喉は乾ききっている……」 「おまえ、その声を俺は知っているぞ」  雷の口調が、獰猛《どうもう》な響きを帯びて震えた。 「おまえは天使《ムーン・エンジエル》だ。まちがいなく、その声は天使の声だ。忘れようったって忘れられるものか!……俺の、俺のこの左腕を斬《き》り落とした天使の声だ! 地獄の底まで、その声だけは忘れてなるものか!」  最後を、ほとんど怒鳴るように、雷は言った。 「ムーン・エンジェル……そうか、この声を聞いて、そう思ったのか……」  男は、雷の激昂《げつこう》にもかかわらず、意外に冷静な調子でそう応じた。 「ちがいない……トランスレーターのボイス・コードは、皆、似たりよったりの音を出すからな」 「トランスレーター!?……ボイス……なんだと!?……」  雷は意味の十分に分らないその言葉に、やや怒りをそがれながらも、そう叫び返した。  天使たちはよく、雷たちの言葉ではない≪洋語≫を好んで使う傾向にあった。  だから雷たちも、彼等《かれら》が常用する洋単語についてはかなり理解もできたが、今、男が口にした言葉ははじめて聞くものばかりだ。 「おっ、これは失礼。翻訳レヴェルを、もっと上げなくてはいけなかった……」  男は喉元に手をのばし、さっきいじっていたツマミとは別の突起を、数回指先で回した。 「トランスレーターとは翻訳器、つまり、この装置のことなんだ。そして、ボイス・コードというのは声帯、要するに、この声を発生させる部品の名称だ。……頼む、わたしに水を飲ましてくれ。それからなら、たとえその原始的な武器で撃たれても文句は言わん」  男は舌を突き出さんばかりに口を開き、大きく喘ぎながら声を発した。  それから一拍遅れて、男の喉元に密着させられた�翻訳器�が喋《しやべ》りだす。  しかし、男の苦し気な様子とは関係なく、翻訳器から吐き出される声の調子は変わらない。  それはあくまでも、あの妙にくぐもった、歪みのある音で構成された、天使たち、ムーン・エンジェルの声だったのである。  いっときの無理な努力が、男の体力をさらに奪ってしまったらしい。  男は再び、がくりと頭を地面に落とした。  すでに、わずか数歩離れた場所にある水筒のところまで這いずる気力も残ってはいまい。  にもかかわらず、その声だけは、邪悪な怪力によって雷たち村人をしたたかに痛めつけてきた天使のそれにまちがいない。  その余りにもかけ離れた結びつきが、さらに雷のとまどいをあおった。  雷は迷った。  雷の心の奥には、またこの状況全体を信じきれない気分が残っていた。  しかし……ともかくも、男は明らかに、余りにも無力な存在と見えた。  男がたとえ不測の行動にでたとしても、片腕の雷にさえ、容易にそれに対処できる見きわめはつけられた。  雷はなおも迷いながら、しかし決心した。  彼は鼻を鳴らすと拳銃を腰のベルトにもどし、用心しながら水筒を取り上げて男に近づいた。  そして、言った。 「……よし、水は、ここにある……もともと、この水はおまえのものだ。それを俺が先にいただいてしまったというわけだ。おかげで俺は命びろいをした。乾きのために、今にも死にそうだったのは、この俺も同じだったんだからな。だから、俺はおまえに、そのことで恩がある。だから、こうして、水を飲ませてやるが……だが、ひとつ、その前に……」  雷はふと言いよどんだ。 「何だ……だが、どうした……」  男は、苦しみながら、なお澄んだ目で雷を見上げ、そして訊いた。 「ひとつだけ……ひとつだけ、おまえに本当のことを確かめておきたいんだ……そうなんだ……」  雷はつぶやくように言って、水筒を差し出すと、男のかたわらにひざまずいた。 「……おまえに確かめたいのは……それは、おまえが何者か、ということだ……つまり、おまえは、あそこからやってきた男なのか? あの、天使の一族なのか? どうなんだ……教えてくれ、それを聞かしてくれ……」  雷の持つ水筒に引き寄せられていた男の目が、ゆっくりと雷の顔面へともどってきた。 「なるほど……しかし、それを訊いてどうするつもりだ、え?」  翻訳器が、嘲《あざけ》りに似た静かな調子で、その声帯《ボイス・コード》を震わせる。  それが、雷の神経を気味悪く逆なでした。  雷は一瞬激しく背を震わせた。  しかし、歯を食いしばって、こみ上げてくる激情に耐えた。 「……この俺の身体には、見ての通り一本の腕しかついていない。分るか! 残りの一本は、どうなったと思う?……俺の村、いや、かつて俺の村だった夏古、奴等《やつら》の言い方では居留地《キヤンプ》八〇一へ、ある日、天界船がやってきた。そして、俺の妻を奪いとり、ついでに俺の左腕を切り落として飛び去っていった……分るだろう、なぜ、俺が、おまえの素姓を知りたがるか、これが、理由だ」  雷の言葉につれて、男の顔が微かにこわばった。  しかしすぐ、そこには平安ともあきらめともつかない表情がもどってきた。  男はゆっくりと目蓋を閉じ、そして開いた。 「なるほど……」  そして、短い沈黙—— 「なるほど……」再び男の口から、ため息に似た音が洩れた。「……どうやら、奴等は、わたしをもっとも確実な死刑執行人のもとへ送りこんでくれたようだ。これも、運命、というやつだろう……いや、よく、分った……」  男はまたゆっくりと再び目蓋を合わせた。 「……わたしの名は、ヴィダル・ガルタ……天界南宮で、天帝《ロード》のための親衛隊第三分隊長に任ぜられていた男だ……そうは言っても、分るまいが……おまえたちが知っている天使とは、いくらか階層が違う。けれど、彼等の一族かと言われれば、まちがいなく、わたしは、そうだ」  男はきっぱりと言いきった。 「や、やはり、おまえは、あの天使の仲間なのだな!?」 「そういうことになる……いや、それどころか、天使の頭目のひとりだった、と考えてもらってもいい……さあ、約束だ、水を飲ませてくれ。それから、撃つなり、絞めるなりして、わたしを好きなように殺せばよかろう。さあ……」  男は目を開いた。  そこにはもはや、どんな種類の感情も浮かんではいなかった。ただ、深い、深い静けさの色だけがそこにあった。  と、月がついに地平に隠れた。  それが昂《たか》ぶりかけた雷の気持ちを微妙に押しとどめた。  急激に降りてきた闇に包まれて、雷は言葉も返さず、黙って男の身体を手探りした。  そして頭の下に自分のひざをあてがい、男の首をややもたげ気味にしてやると、その唇に、水筒の呑み口をあてがってやった。  男は喉を鳴らし、長い時間かけて水を飲み干すと、満足の吐息を吐いた。  雷は、闇の中で、その男を見下ろした。  しかし、彼はただ、ぼんやりと長い影となって、地面に横たわっているばかりだ。 「……ヴィダル・ガルタ……」  雷は男から聞きだしたその名前を、ぼんやりと口の端にのせた。 「……ヴィダル・ガルタ……不思議な名前だ……」  雷は言った。  しかし、男は、それに応《こた》える気配もなく、深いため息をついた。 「ヴィダル、教えてくれ。おまえは、なぜ、いま、ここにいる? どうして、この下界へ運ばれてきたんだ?」  雷は、ひざで支えている男の頭を軽くゆするようにして、そう訊《たず》ねた。 「うん?……話しても仕方のないことだ……しかし、まあ、これも何かの縁にちがいない。この世を去る前に、教えておこうか……わたしは、あの天界を追放になった人間だ。今回の政変で、百名に近い男女が処分になった。奴等は、決して自分たちの手を汚さない。重い処分は、いつも、地球への�送還�という名目で行なわれる。処分者は、鎧《アーマー》など全《すべ》ての補助装置を与えられぬまま、この大重力の地球へ追放される……当座をしのぐための水と食料だけは、与えられる……あとは、勝手に生きてゆけばよい、というわけだ。もし、生きられるものならば、だ……」  翻訳器が、男の軽い自嘲《じちよう》の笑いを、その声帯《ボイス・コード》で真似《まね》た。 「それは、つまり、天使どうしの争いがあった、ということか?」  男の言葉の全体像を掴みかね、雷はとまどいがちに、そう訊いた。 「天使どうし、天帝階級の者どうし、争いあった。そして、我々は、こうして追放になったのだ……いいかね、覚えておくがいい。そして、もし機会があったなら、地球の居留民に知らせてやるがいい……これからは、もっともっと苛酷《かこく》で、異常な要求が、この下界にもたらされるようになるだろう、と……いいかね、たとえば、生まれたばかりの幼児を天界が召し上げてゆく、といったこともあるにちがいない……」 「幼児を? 子供を天界へ連れて行って、育てるというのか?」 「……いや、いや……」男が、また薄く笑った。「育てたりするものか。食うのさ、奴等は柔らかな子供の肉が、ことの他お気に入りなのだ。すでに、下界から天界に運ばれた女たちの腹は、そのために使われるようになっている。それだけでは飽き足らず、奴等は、もっともっとこの下界から新鮮な肉を手に入れようと考えている。そればかりではない、奴等が考えていることは、それだけじゃない……まるで、正気とは思えない……月は、文字通りルナティックな世界になりはじめているんだ……我々は、そのことの異常性に気づいた……そして、それに気づいたことが罪とされたのだ……」  男の声が次第に眠気をはらんで、重く沈んでいった。  雷はもはや、問い返すことも忘れて、必死で男の言葉を反芻《はんすう》していた。  余りに途方もない、ヴィダル・ガルタの告白だった。  それを、そのまま受けつけることに、雷の心が激しい抵抗を示していた。 (……嘘《うそ》だ……)雷は思った。(この男は、自分がどうしても殺されると分って、俺をだまそうとしているんだ……)  雷は激しく思いわずらいながら、男の頭をそっと地面に下ろし、逃げるように後へ這いずるとその場に座りこんだ。 (さもなければ、この男は頭がどうかしているんだ……そうだ、そのために、こうして下界へ追放されたのだ……そうに違いない……)  雷は、どうしようもない心の混乱をかかえたまま、どさりとあお向けに、地面へ身体を投げだした。  全身を思いきり長々とのばし、そして、満天を埋めた星々の輝きに目を向ける。  天界……それは、いつも、手が届きそうなほどすぐ頭上を、ひたすら美しい姿を見せつけながら行き過ぎてゆく現実の楽園だった。  そして、ここに、その世界から棄《す》てられたひとりの男が横たわっている。  その男を、どうすべきなのか、雷はもう分らなくなっていた。  男の苦し気な寝息が聞こえてきた。  ヴィダル・ガルタ……天使たちの頭目だった男……そして、天界の狂気に反対して下界へと放逐された人間……。  その言葉を、どう信じ、どう疑ってかかればよいのか。  雷を押し包むように輝く星々は、はるかに遠く、そして冷たかった。  しかし……しかし、天界は違う。  それは、すぐそこにあった。  現実に、そこと下界を行き来する船があり、それによって運ばれる人間や物があった。  その事実が、また雷を苦しめた。  しかし、やがて、疲労が、雷の苦悩を少しずつ眠りの世界に溶かしこんでゆく。  ともかくも、今日一日、彼は生きのびたのだ。  この分なら、明日も、そしてあさっても、さらに運があれば、あと数日、彼はこの大地を西へ進み続けることができるだろう。  そして……そして、どうするのか……いや、今は、それを考えるべき時ではない……ただ、生きること……そう、生きることが……  その時だ。痺《しび》れてゆく頭の隅で、不意に警戒の本能が鋭い叫びを上げた。  雷は動物的な反応《はんのう》で全身を緊張させた。 (何だ!? これは、何だ!?)  跳ね起きた雷は、再び地面に這いつくばると、地面に耳を押しあてた。  微かだが、はっきりとした震動がそこに伝わってくる。  しかも、それは、こちらへと近づいてくるもののように思われた。  雷の目が、素早く闇の中を探る。  雷はまず、その男ヴィダル・ガルタとともに地上へと運び下ろされた食料の箱にとびついた。  その把手《とつて》を渾身《こんしん》の力をこめて引く。  そして、ずるずると箱を引きずりながら、雷が最初に寝ぐらと定めていた、ちょっとした岩の陰めざして這いもどる。  箱の上に、彼の荷物のボロを被せて隠し終えると、もう一度、地面に耳をつけた。 (来る……何かが、こっちへ来る……)  震動は、さらに荒々しく、明らかなものとなっている。  雷は、一瞬の躊躇《ちゆうちよ》の後、再びヴィダルが横たわる場所へととって返した。  雷のおののきも知らぬげに、この下界へと堕《お》ちた天使は、昏睡《こんすい》に近い眠りから醒《さ》める様子もない。  雷の右手が、男の上半身にまきつけられた。  疲労の余り、上腕の筋肉が激しくひきつる。  それに必死で耐えながら、雷はヴィダルの長身を引きずって、岩場の背後へと急いだ。  男の喉元から翻訳器が転がり落ちるが、今はそんなものをひろっている余裕はない。  雷に身体を手荒く振り回されるうち、ようやくヴィダルに正気がもどってきた。  しかし、すでに生命を雷に預け、観念しているためか、ことさらに騒ぎたてる様子もない。  その長身を、やっと隠れ家に引きずり込んだ時、荒原の南から、轟々《ごうごう》と大地を揺るがして、何ものとも知れぬ黒い巨体が次々と姿を現わしたのだった。  4 軍団は西へ  もっとも大きな影は、およそ、雷が住んでいた居留地の家一軒ほどもあった。  その前後を固めて、さらに五つ、六つ、やはり小山のようにずんぐりとした影がしたがっている。 (戦闘団だ! そうだ、奴等だ!)  電はちぢみあがった。  それも、かなり大規模な部隊に違いない。  大戦を生き残って荒原を徘徊《はいかい》するいわゆる戦闘団の数は、ほとんど無数と言えるほどで、正確には掴《つか》みがたかったが、それらの大部分は、多くても百人、二百人といった単位の集団で、しかも、打ち続く襲撃や、戦闘団どうしの小ぜりあいのために、満足な武器、兵器を未だに保有している例は少なかった。  その代表的な装備となると、装甲車、あるいは戦車を一、二台、それと自転車など燃料を必要としない運搬手段を中心に、少数の重砲、また大戦後の手づくりのものを含む小火器や、その他、槍《やり》、刀、弓などの原始的な得物による武器を持つ、といった程度のものだった。  彼等の多くは、戦争の長期化にともなって指揮系統から脱落を余儀なくされた大隊や中隊の末裔《まつえい》で、ただひたすら、生きるためだけに闘い続けている、本当の意味での掠奪団《りやくだつだん》的性格の戦闘部隊と言えた。  しかし、今、雷の眼前に接近してくる大部隊は、明らかに、そうした荒野の単なる野獣たちとは趣きを異にしていた。  大戦前、各大国は、本格的な核戦争下でもその破滅を切り抜け、さらに報復のための作戦行動を続行し得る部隊を、師団単位で準備しつつあった。  彼等は各所に、極秘の出撃拠点や、莫大《ばくだい》な補給物資を蓄積した地底基地などのバックアップ・システムを持ち、人的な問題さえなければ、理論的には数十年、百年に及ぶ単独の作戦維持能力を持っているとされていた。  もちろん、戦後の居留地で育った雷に、そのような軍事知識があったわけではないが、荒原には、想像を絶した、怪物的な軍団が現実のものとして存在することは聞き知っていた。  実際、彼等はすでに、全ての目的を剥奪《はくだつ》された、狂気の軍団と言えた。  掠奪団が、生きるために闘い続ける集団だとすれば、そうした師団員たちは、ただ闘うためだけに生き続けているとしか言えなかった。  しかし、現在の、この状況下で、天界の軍隊が、すでに老朽化の激しいこうした軍団を駆逐するのはたやすい仕事だったに違いない。  だが、彼等はあえて、そうした行動にでなかった。  彼等は、�力筒《チユーブ》�という資源によって、下界たる地球からすべての実りを絞り上げる必要があった。  そのためには、彼等の保護を必要とする居留地がなくてはならず、その居留地が保護を必要とするためには、その敵、掠奪団の存在が不可欠だったのだ。  だから、天界は、掠奪団自体が余りに強大化することを望まなかった。  居留地の全てが、掠奪団に席捲《せつけん》されるような事態は、何としても避けねばならなかった。  かといって、居留地に力を与え過ぎれば、彼等は独自に地球の支配権を握って、天界に対して叛逆《はんぎやく》を企てるかもしれない。  こうした関係を、うまく緊張状態に保ち続ける役割を、天界の支配者たちは超軍団に果たさせていたのである。  圧倒的な戦力の蓄積によって、彼等は事実上、この地球にあって無敵だった。  彼等はいつの間にかそれぞれにテリトリイをつくり上げ、その中を巡回しながら、時々遭遇する掠奪団を掃滅してゆく。  しかも、完全に軍事中心の組織体である超軍団は、戦闘集団ではない居留地に対して、それほどの関心を示さないのが普通だった。  時に、新鮮な食料を求めて、小部隊が居留地へ出現することはあるが、その際、居留地側は天災とあきらめて、その収穫物の一部を供出する。  もとより、貯蔵物資に余裕のある超軍団は、掠奪団と違い、根こそぎの要求は決してしなかったからだ。  こうして、居留地——掠奪団——超軍団と連なる緊張関係は、天界という調整者の思惑通り、今や、見事な均衡状態に達していると言えた。  それは、ちょうど、大戦前の野生地に存在した、ある種の生体系に似ていた。  …………  大地は、今も揺れ続けていた。  およそ、十基ほどの小山のような重戦闘体《H・B・U》(ヘヴィ・バトル・ユニット)が、ガーガーと原子力エンジン特有のやかましい機関音を振り撒《ま》きながら、雷の前方を行進してゆく。  このすさまじい戦闘機械を、雷はこれまでにも二度ほど、居留地で目撃したことがあった。  しかし、それはいずれも、一、二基で、しかも小型のものでしかなかった。  今、ぎくしゃくした動きで、小刻みに西へと変針してゆく重戦闘体は、その記憶にあるユニットの優に三倍はあるように見えた。 (本隊だ! これが本隊なんだ……)  いつしか、こわさまで吹きとんでしまった雷は、岩陰から頭ひとつを突き出し、星空の下の行進を見つめていた。  陸の戦艦ともいえる重戦闘体の艨艟群《もうどうぐん》の回りには、小型の戦闘|車輛《しやりよう》も数多く、まとわりつくようにして同行している。  恐ろしく大規模な移動風景だ。  こうした超軍団というものの成り立ちを知る者がこの光景を見たなら、彼は、その集団が、古くなった拠点を棄て、新たな補給基地を目指して全軍あげての移動を開始したに違いない、と推測したことだろう。  だが、雷が判断し得たものはただひとつ、これだけの部隊が出没しているからには、この付近に、彼等の本拠地があるのではなかろうか、ということだけだった。 (本拠地……)  その言葉はまず、雷に水と食料を想像させた。  それはさらに、河川の存在を暗示するものかもしれない。 (渦《ウオ》川が近い……)  雷は短絡的に、そう思った。  超軍団は、大量に巻き上げた砂塵《さじん》や土砂によって星影を消しながら、西へと遠ざかってゆく。  雷の全身は、ぶるぶると激しく震え続けていた。  しかし、それは怖れのためというより、むしろ興奮のためだった。  超軍団の圧倒的な姿は、人をおびえさせるには余りにも超絶的であり過ぎた。 (行くぞ……)  雷はそう決意した。  彼等に発見されれば、あるいは即座にこの世から抹殺されてしまうかもしれない。  しかし、そうでなくとも、雷の前途に待ちかまえているものは、いずれにせよみじめな死、それだけなのだ。  だとすれば、同じ死を迎える場所として、あの伝説の超軍団の本拠地ほどふさわしいものが他《ほか》にあるだろうか。  いま、雷の心に、そんな考えが、強く、強くしがみついてきた。 (そうさ、この旅は、死に場所を求めての旅だったはずだ……)  奇妙な興奮が、雷を捉えていた。彼はこぶしを握りしめ、それを硬い岩に打ちつけた。 (そうさ、超軍団だ……俺《おれ》にとって、充分な、いや、充分すぎる相手じゃないか!)  たとえ、そこでどんな殺され方をするにせよ、雷はそれで自分を納得させられる自信があった。  居留地に閉じこめられた変化にとぼしい一生と比べるなら、超軍団の秘められた基地を求めての探索行は、それだけで生命をかけるに足るものと言えるのではないか。雷はそう考えようとした。  そう考えることで、雷の心は、燃えた。 (よし、見つけてやる……やつらの跡を追いかけて、その正体をこの目で確かめてやる!)  そして、死ぬのだ、と雷は思った。 (それで、いい。俺の運命は、とうの昔に定められている。残るのは、ただ、俺自身がそれを納得できるかどうかの問題だけだ……)  地面を揺るがしながら西へと行進する重戦闘体の小山の群は、すでに、闇のなかへすっかり溶けこんでしまいつつあった。  しかしそれでもなお、大地と大気は、不気味な鳴動を伝えている。  その遠去かる轟音《ごうおん》の行きつくところ、荒原のどこかに、彼等の拠点基地が隠されているのだ。  雷は、なおも全身で、移動する軍団の気配を感じとりながら、それまでへばりついていた岩から滑り降りた。  そして、眼《め》をぎらぎらと光らせたまま、不安そうに雷を見つめかえしているヴィダルのかたわらに引き返した。 「心配ない、ヴィダル。やつらはもう行ってしまった。心配ない」  雷は闇のなかで、男に説明した。 「J'ai perdu Translator…………Heperdido……」  男は、しきりと、わけの分らない言葉を並べて雷に何かを訴えようとする。しかし、雷はそれを制して、男の肩に手をやった。 「心配ない……眠るんだ。あんたにとっても、明日からは大変な毎日になるんだ。いいかい……俺は、あることを決心した。そうさ、決心したんだ。もし、あんたも俺の考えについてくるというんなら、俺はそれを止めやしない。しかし、そのためには、まず、最低立って歩けるようになることだな。いつまでもそんな身体のままじゃあ、俺はあんたを、ここへ置いていくほかないんだからな。分るか? 分ったら、眠るんだ。いいな……」  雷の言葉の調子から、なにかの意味をくみとったのか、男は黙りこむと目を閉じた。  それを見とどけ、雷もそのそばに、雑嚢《ざつのう》を枕《まくら》にして横たわる。  たちまち、極端な疲労が、雷の全身を麻痺《まひ》の網でしめあげてくる。  しかし、昂ぶった精神の方は、なかなか眠りにつくことを承知しようとしなかった。 (まあ、いい……)  雷は、早くも白みはじめた星空をにらみながら自分に言いきかせた。 (とにかく、生きのびてさえいるかぎり、俺にはいくらでも時間があるんだ……)  荒原にはいつしか、ゆったりとした風が渡りはじめていた。  雷は、無意識のうちに鼻をうごめかせて、その風の匂《にお》いを嗅《か》いだ。  それは冷たく、そして乾ききっていた。しかし雷は、そのなかに、微かな得体の知れぬ獣臭を感じとっていた。 (…………?)  雷はぼんやりと眉を寄せた。  しかし、今の彼に、その正体を確かめる気力は残されていなかった。  それどころか、本来ならば彼を緊張させるべきその獣の気配が、彼に不思議ななぐさめを与えていた。 (俺だけじゃない……俺たちの他にも、この荒原で生きているやつがいる……)  そんな思いが、雷に、警戒よりはむしろ安らぎを覚えさせた。  雷ははじめて、深い吐息をついた。  それがそのまま、大きなあくびになった。  雷の目蓋《まぶた》がゆるゆると下りてきた。  そして、雷は、そのまま急速に、夢もなにもない泥のような眠りに沈みこんでいった。  …………  …………  ……どのくらい時間が経《た》ったのか。  激しい日射が顔をじりじりとこがす感覚に耐えきれず、雷の意識は、しぶしぶ、その昏睡から醒めはじめた。  目やににかすんだ視界が、ぽかりと開く。  あたりは、白熱の真昼だ。  太陽が、雷のすぐ頭上で、ぎらぎらと燃えたぎっている。 「……うぐ、ぐぐ……」  雷は力なく呻いて顔をしかめ、ごろりと身体を横転させた。  そして、首を強く振って起き上がろうとする。  と、不意に、彼は自分を見つめる男の視線に気づいて顔を上げた。そして、目をむいた。 「お、おまえ……」  雷は反射的に跳ね起きようとする自分を、必死で自制した。  なぜなら、その男の手には、雷が昨夜確かめた男の持ち物のひとつ、小型の武器が握られていたからだ。  雷が眠りこんでいる間に、男はどのようにしてか、その場所まで這いずっていったものらしい。  男のもう一方の手には、食料の包みがあった。  空腹と乾きが、男に死にもの狂いの力を発揮させたもののようだ。  不覚だった。  しかし、こうなっては、ともかく男の真意を探るしかなかった。  雷は、右手の手の平を広げて反抗の意志がないことを示しながら、慎重に身体を起こした。  男は、金属の箱と、その背後の岩に上半身をもたせかけるような格好で座りこんでいた。  しかし、そんな楽な姿勢をとってはいても、男はなお苦しそうだった。  長い両足を無器用に組み、肩で息をついている。  彫りの深い顔立ちも、汗にまみれ、歪んでいた。  さらに、武器で雷を狙《ねら》っていながら、男の目には訴えかける色があった。 「さて……それで、どうするつもりなんだ……」  雷はできるだけ声を柔らげて、そう切り出した。 「……ト・ラン・ス・レイ・ター……トランス・レイター……」  男は雷にもはっきり分るよう、一音一音を区切りながら発音すると、しきりに右手の銃で雷をうながす。 「トランスレイター? 翻訳器のことか……それを、俺に持ってこいというんだな?」  雷は男の要求を了解した。  男の翻訳器の所在は、だいたい見当がつく。  昨夜、男をこの岩場まで引きずってくる途中で、それが彼の喉元から転げ落ちたのは覚えている。  閣のなかの出来事で、正確な場所は分らないにしても、探す範囲は限られたものだ。  雷は、(わかった)と、大きく幾度もうなずき返した。  ともかく、それを探しに行くためには、この岩に囲まれた窪地《くぼち》を出なくてはならなかった。  それは、雷が、男の目のとどかない場所まで、とりあえず脱出できることを意味していた。  ということは、逆襲のチャンスはいくらでも作り出せる。  しかも、男は、また雷のベルトの間に差し込まれている拳銃《けんじゆう》のことを思い出していないようだ。  思わず、雷は、にやりと笑みを洩らした。 「よし、わかったよ、ヴィダル……トランスレイターだな、�トランスレイター�……わかってる、わかっているとも。いま、俺、が、探して、きて、やる」  ゆっくり喋ったからと言って通じるわけでもないのだが、雷は男の発音を真似て、そう告げた。  そして、くるりと背を向けて歩きだす。  雷が期待した通り、男はそれを制止しなかった。  雷は、走り出したい気持ちに耐えて、わざとのろのろ、前方の大きな岩めざして足を運んだ。  武器に狙われていると思うと、やはり、背中がすくむ。  どうにか射線をはずして、岩の背後へ回りこんだ時には、思わず座り込みそうになった。  雷は、自分の目を強くこすりながら、あたりを見回す。  夜中の感覚のまま、急に真昼の世界へ放りこまれたことで、雷の頭の中ではまだ混乱が続いていた。  周囲の光景も、闇をすかして見たそれとは、かなり感じが違う。  しかし、地面に残された痕跡《こんせき》などを確かめるうちに、ようやく、昨夜の位置関係が思い出されてきた。  すると、ことさらに探すまでもなく、黒っぽい荒れた砂漠の上に放り出されてある翻訳器《トランスレイター》が目に入る。  雷は身体をかがめてそれをひろい上げながら、ひとりごちた。「さて……で、どうするかだ……」  雷は腰をのばして、荒原を見はらした。  夜間とはうって変わって、ひどい暑さだ。  まるで大気そのものが燃えさかってでもいるかのように、風景という風景が、ゆらゆらと陽炎《かげろう》のなかで揺れている。  はるか、南の地平線近く、なにものとも知れぬ、極端に歪曲《わいきよく》されて見える黒い影がのろのろと動いている。  大きな動物のようだが、雷にもはっきりとは分らない。 (荒原では、動物の後をついていけば水場に出られる、という話を聞いたことがあるが……)  ふと、その考えに心を動かされた拍子に、雷は、自分の喉が、すでに耐えきれないほど干上ってしまっていることに気づかされた。  なにをどうするにしろ、ともかく、いまは、一杯の水が必要だった。  そして水は、あの男、ヴィダルのかたわらにある。  雷は意を決し、ひろい上げた翻訳器を左腕のつけ根にはさむと、右手で腰の拳銃を握った。  足音を殺して、岩場の陰ににじり寄る。  そこから慎重に目だけをのぞかせると、男の姿が見えた。  彼は、明らかに弱りきっているようだ。  金属の箱と岩に寄りかかっていながら、ともすれば上半身が地面へ崩折れてしまいそうになるのを必死でこらえている様子が、雷には分った。  その顔には、不安がありありと見える。  目だけが落ち着きなく、四方をさまよい続けている。  雷は、にやりと頬を歪めた。  雷をだし抜いて、食料と武器を手に入れたのはいいが、もうそれだけで体力のほとんどを使い果たしてしまった格好だ。  これならなにも、荒っぽい手段に出るまでもない。  考えてみれば、男はただ、この翻訳器をどうしても見つけ出してきて欲しかっただけなのかもしれない。  その強い希望を、武器を突きつけるという形で表現したのかもしれなかった。  雷はいったん拳銃を腰帯の間にもどし、翻訳器を右手に握ると、その岩陰から、ひょいと頭だけをのぞかせた。 「おい! ヴィダル、トランスレイターだ、ここに、あるぞ! 受け取れ」  雷は叫ぶなり、その小さな器具を、座り込んでいる男めがけて放り投げた。  そうしておいて、すぐさま拳銃を引き抜き、男の前面に跳び出す。 「動くな、ヴィダル、動くんじゃない!」  雷は叫んだ。  いや、叫んだつもりだった。  雷には、なにがどうなったのか分らなかった。  ただ、頭の中で、小さな火の玉が爆発したように感じられ、そして次の瞬間、目の前が真暗になった。  雷は頭から地面に突っ伏し、そして、もがいた。もがこうとした。  しかし、全身は奇妙な痺《しび》れに犯されてほとんど自由がきかない。  雷は焦った。  しかし、焦れば焦るほど、かえってその麻痺の強さを思い知らされるばかりだ。  と、突然、視力が回復した。  ちょうど、雷の目の前に、男、ヴィダルがいる。  彼もまた、雷と似たりよったりの不様な姿で、地面に落ちた翻訳器を手探りしている。  やがて彼はそれをひろい上げ、昨夜と同じように、その一端を耳に、本体を喉に押しつけた。  そうしておいて、金属の箱から探し出したらしい細い布の帯で、本体を首に結びとめる。  雷は呻いた。  そして、そうしたことで、自分が声を出せることを発見した。  口蓋はまだ自由にならないが、それでも声だけは何とか絞り出せる。 「……く、く、くそ……なんて、こと、しやがる……」  雷は、自分の舌とも思えぬ痺れきった肉塊を操って、ようやく、それだけの言葉を声にした。 「待て……待ってくれ……この武器のことなら心配はいらない。身体が痺れるだけのものだ。ちゃんと、そういう風に調節してある」  翻訳器を装着し終えるヴィダルが、いささか慌て気味にそう言った。 「く、くそ……で、俺を、どうするつもりだ。えっ? ヴィダル……どうしようってんだ……うぐっ……」  次第に身体の痺れは、脱けはじめたようだ。しかし、それにともなって何とも言いようのない不快感が全身を駆けめぐりはじめる。 「待て、それは、こっちが聞きたかったことだ……そうだ、おまえ、おまえの名を、まだ教えてもらっていない。まず、それからだ」  昨夜と、まるで逆の状況だ。  雷は、無数の虫が皮膚の下を這い回っているような気味悪さに涙まで流しながら、それでも必死で、男の顔を見返した。 「俺の名はライだ、�いかずち�という文字をあてる……」 「なるほど、サンダーボルトか、勇ましい名前だ……」  雷をひとまず動けなくしたことで、気力が失せたのか、ヴィダルはぐったりと箱の上に頭までもたせかけて、ぼんやりと雷の様子を眺めている。 「さあ、聞かしてくれ……ヴィダル……俺を、どうするつもりだ……」  雷はあぶら汗をしたたらせながら悪寒に耐え、筋肉の回復を待った。  とにかく、それまでは喋り続けなくてはならない。その前にヴィダルに行動を起こされてはおしまいだ。 「雷《ライ》……おまえこそ、このわたしをどうするつもりだったのだ。見れば、おまえは、水はおろか、食料らしい食料も持っていない。となれば、おまえが狙うのは、わたしの食料しかないはずだ。いや……これを分け与えるのが嫌だと言っているのではない。雷《ライ》、おまえは、ともかく、身動きもできないわたしを手助けしてくれた。そのことには感謝している。しかし、そのつぎに、おまえがどうするつもりなのか……わたしは、それが知りたかったのだ。見ての通り、わたしの身体は、まだ地球の、このひどい重力に慣れていない。今は、ひとりで歩くこともできない状態だ。こんなわたしを、おまえがどうするつもりなのか……それが分るまで、黙って待つわけにはいかないじゃないか、え、雷……わたしには、この手段しかなかったのだ……」  ヴィダルの調子には、すがりつくようなところがあった。  雷はそのことで、ほっと胸を開いた。 「ヴィダル……銃を突きつけての探りあいはやめにしよう。お互い、どちらも、この先ひとりではやっていけそうもないんだからな……」  雷はようやく動かせるようになった首をわずかに地面から持ち上げて、ヴィダルに提案した。 「……なあ、ヴィダル……俺たちは二人ともこの荒野に追放された人間だ、争いあっても意味はない。そうだろう……どうだい、ひとつ、ここで、公平に取引をしようじゃないか」 「取引?」ヴィダルの眉《まゆ》が動いた。 「そうさ……おまえは、その持っている食料の半分を、この俺に渡す。そのかわり、俺は、あんたの身体がなんとか人並みに動けるようになるまで面倒をみる……どうだい、そういうことでは?」  それは雷の本心だった。  超軍団の本拠地をめざす、といっても、当面の問題は食料だった。  となれば、それはヴィダルも指摘した通り、彼といっしょに天界から運ばれてきた金属の箱の中以外にはなかったのだ。 「そして……その後は?」ヴィダルが、まだ不安そうな面持ちで訊き返す。「その後はどうするんだ?」 「さあなあ……」  雷は、ようやく、なんとか立ち上がれる程度に回復してきた筋肉の感覚を試しながら、慎重に寝返りを打った。  喉の乾きはますますひどくなっているが、いまここで唐突に行動に出たら、また、ヴィダルの不思議な麻痺銃を見舞われないとも限らない。 「……ヴィダル……俺には俺だけの目的がある……いや、その目的は昨日の夜、急に思いついたものなんだが……なに、馬鹿《ばか》げたことにはちがいない。超軍団の本拠地が、どうもこの近くにあるらしい。俺はそれを一目見てから死にたいんだ。そうなんだ、そのために、俺は、西へ進む。どうせ、あんたも、この土地に長くいれば野たれ死ぬだけだ。俺といっしょに来たければ来てもいい……それが嫌なら、動けるようになったところで、二手に分かれればいい……」  雷は言った。 「……超軍団?……ああ、核戦師団のことだな。そうか……昨夜の、あの地鳴りは、師団が移動する騒ぎだったのか……しかし、核戦師団がいるとなると、ここは、いったい、どこなんだ……きみの顔つきからすると、どうやら東洋のどこかには違いないと思うのだが、それ以上は見当もつかない……位置さえ掴めれば、まだ、手の打ちようもあるかもしれないが……いや、無駄だ……もう、なにを考えても無駄なんだ……」  ヴィダルはつぶやくように言った。 「なんだって? あんたは、ここがどこかも知らないのか?」  雷が驚いて問いかけた。 「……ああ……あの天界から、船につめこまれて、そのまま、ここに降ろされた。説明は、いっさいなしだ。もちろん、地図も与えられていない」 「地図? 地図なら、俺が持っているぞ。ただし、大戦前のものだから、役に立つとは思えないが、ともかく、このあたりの大ざっぱな地形だけは分る。それに、あんたが見れば、自分のいる位置が、その�東洋�とやらかどうなのかも分るんじゃないのか!?」  雷は、半ば身を起こしてそう言った。  その時、雷は、不意におかしな匂いに気がついた。  それは妙に鼻をつく腐ったような獣臭だ。  それが、風向きによって、強く、この岩場の窪地に流れこんでくる。 「雷、おまえは、地図を持っているのか!? そうか! それなら……」  言いつのろうとするヴィダルにかまわず、雷は危険を感じて、取り落としたままだった拳銃を片手で探った。 「雷! 何をする、やめるんだ!」  雷の突然の動きに驚いたヴィダルが、慌てて麻痺銃をかまえ直そうとしたその時だ。  突然、ヴィダルの背後の岩ごしに、なにか巨大な灰褐色の生き物が、その頭部を、ぬっと突き出したのだった。  5 泥牛現わる  まず雷が見たのは、二本のひねこびた太い角だ。  ついで、赤く濁った、意外に小さなふたつの目が現われた。 「ヴィダル!……ヴィダル!……うしろだ!」  疲れの消えない右手で、拳銃を掴もうとしては、かえってそれをはじきとばしてしまい、もつれる足で、またそれに跳びつこうとしながら、雷は必死で叫んだ。  いったんは麻痺銃の狙いを雷に向け、発射ボタンを押そうとしたヴィダルだが、雷のただならぬ慌て方にとまどううち、ようやく背後の気配に気づいたようだ。  はっ! と振り向いたそのすぐ頭上に、怪物の偏平な顔を見つけて、すさまじい悲鳴を洩《も》らす。 「ヴィダル! こっちへ来い、こっちへ来るんだ!」  よろめきながらも立ち上がった雷が声を張り上げた。  しかし、怪物の方は、そんな二人の騒ぎに鈍重そうな目を向けるばかりで驚いた様子もなく、さらに、のそりと窪地に巨体を乗り出してくる。  と、その真赤な口が裂け、そこからよだれとともに長い舌が垂れ下がってきた。 「うわっ、うわあ!」  危うくその舌先で顔面を舐《な》められそうになったヴィダルが、あおむけに倒れて、それを避ける。 「泥牛だ! そいつは、泥牛だ!」  ようやく怪物の正体に思い至った雷がそう叫んだ。  しかし、怪物をすぐ頭上に見上げているヴィダルにとっては、その名前などどうでもよいことだったに違いない。  彼は錯乱した文句をわめきながら、後ずさる。しかし、そんな動きにかえって好奇心を刺激されたらしい泥牛は、なおも舌をのばしてヴィダルにその鼻面を近づけてくる。  ヴィダルが、また、なにかを叫んだ。  そして、怪物の頭を払いのけようとするかのように麻痺銃を握った右腕を突き出す。  ボッ! というような軽い音が、その銃口からほとばしった。  泥牛は、ひどく面くらったように、ひゅるひゅると長い舌をひっこめた。  だが、それ以上の衝撃は感じていないらしい。  雷も拳銃を掴み直すと、撃鉄を上げた。  だが、のっぺりと巨大な泥牛の急所がどこにあるのか、雷には見当もつかない。  一瞬、雷が躊躇しているうちに、ヴィダルは、二撃、三撃を怪物めがけて浴びせかけていた。  左手で武器の小さなノブを操作し、その出力を上げながら、さらに撃つ。  発射音がそれにつれて高まり、ついには、バウッ! というような鋭く重い音に変化した。  と、ついに、怪物は後退をはじめた。  泥牛は、どうも気分がよくないわい、とでも言いたげな目つきで首を左右に振ると、よろりと岩の後に頭を隠した。  そして次の瞬間、ズシン! と地響きをたてて大地に寝そべったようだ。 「ヴィダル! ヴィダル、大丈夫か!?」  雷が、まだおぼつかない両足をひきずりながら、ヴィダルに駆け寄った。 「あ、ああ、あ、あ……」  なけなしの体力と気力をすっかり絞り出してしまったのか、ヴィダルはそのまま、差しのべた雷の腕の中に倒れこんできた。その頭を、雷はそっと地面に降ろしてやる。 「……ああ、ああ……まったく……なんてやつだ……パラ・ガンで、あれだけ撃たれて、やっと……やっと……」  ヴィダルの手から、小さな武器が、カラリと落ちた。  雷は咄嗟《とつさ》にそれをひろう。 「いや、いや……それは、もう役に立たん……」ぜいぜいと息を切らしながらヴィダルがつぶやく。「もう、エネルギーが残っていない……ありったけを、あいつに浴びせかけてしまったからな。チューブを交換しなくては使えないぞ」  そう言うと、ヴィダルは皮肉っぽい視線で雷の顔を見上げた。 「……そう……これで、また、振り出しにもどったというわけだ。主導権は、おまえ、雷にうつった……」  雷は心の中を見すかされたような気恥ずかしさを覚えて顔をそむけると、その小さな器具をためつすがめつ確かめるふりをした。 「パラ・ガンというのか、こいつは? 身体を痺れさせるための武器なのか?」  雷が訊く。 「その通りだ。一種の電撃銃《ボルト・ガン》だが、神経系統にショックを与えて相手を麻痺させる。もちろん、出力を上げれば、相手を殺すこともできる……さっき、おまえを撃った時は、最低の出力だった……だから、すぐに立ち直れたんだ……」  ヴィダルは言いわけがましくそう説明すると、薄く笑った。 「で? あの泥牛は死んだのか、どう思う?」  雷は話題を変えようと立ち上がり、岩ごしにのぞいている巨体の一部に目をやった。 「いや……分らん……だが、そいつであれを殺すのは、無理だろう。一時的に動けなくなっているだけにちがいない。そのパラ・ガンは、あくまでも対人用の護身銃だ。最高出力といってもタカがしれている。またすぐに、息をふき返すにちがいない。さて……その時までに、どうするか、だが……その、泥牛とやらは危険な生き物なのかね?」  今度はヴィダルが雷に質問する。 「いや、泥牛は、図体こそでかいが、獰猛《どうもう》なところはない。大戦前は、水牛という、もっと小さな動物だったということだ。それが、いつの頃《ころ》からか、四本の足が太く短くなり、そのかわり胴体が大きく平べったくなってしまったという……」 「突然変異《ミユーテーシヨン》か……」  ヴィダルが苦々しげに言う。 「ああ、そんな言葉を聞いたことがある……」雷はうなずいた。「……ともかく、水や食い物の匂いには恐ろしく敏感な奴だと言われている。俺たちの村、夏古にも、何度かこいつが水の匂いにつられて、やって来たことがある。もちろん、すぐに守備当番が仕とめて、村中の食卓に配って歩いたもんだ。こいつの肉は、なかなかの美味なんだ。しかし、この拳銃では、あいつにとどめを刺せるか、どうか……」  雷は泥牛の味を思い出そうとして、再び今の自分の乾きと空腹を思い出し、金属の箱から、あと数本残っている水筒のうちの一本を引き出すと、ヴィダルと分けあいながら、それを飲んだ。  食料の包みも、半分割ってヴィダルに渡す。 「……そうなんだ、荒原で水に困ったら泥牛を探してその後をつけろ、と言われているほどだ……やつらは、三日に一度は泥につかっていないと干からびて死んでしまう。だから、水の匂いは、十里離れていても嗅ぎあてるそうだ……」  そう言いながら、突如、彼の頭にひらめいたものがあった。 「雷……ということは、この怪物のあとをついて行けば、水のありかに出られる、ということか!?」  ヴィダルも同時に、同じ考えに達したらしい。上半身をもたげて、そう問いかける。 「……いや、しかし、わたしは駄目だ。今のままじゃ、とても、その泥牛についてゆくことはできない……」  いったんは目を輝かしたヴィダルだが、すぐ、またがくりと頭を地面に落としてしまう。 「……待て!……そうなんだ、待てよ、ヴィダル。いい考えがあるんだ……」  ヴィダルの失望とは裏腹に、雷は急に元気づいた。  そしていきなり立ち上がると、巨獣を見下ろす岩の上に、大急ぎでよじ登った。  泥牛はそこにいた。  平べったい巨大な背中を上にして、四肢を腹の下に折りたたみ、それはまるで眠っているのと変わらない格好で、大地に長々とのびている。  死んではいない証拠に、ふたかかえはありそうな巨大な頭部から、いびきに似た規則正しい呼吸音が響いてくる。  それだけを確かめて、雷はそこから滑り下りた。  不審げに身じろぎしているヴィダルに駆け寄る。 「いいか、ヴィダル。俺たちにも、ちょっとは運が向いてきたらしい。あの泥牛だ、あの泥牛に乗って、水場まで旅をするんだ! やつが痺れて、眠りこんでいる間に、あの背中にのるんだ!」  興奮した雷は、早口で一気に喋《しやべ》った。 「乗る!? 乗るだって? どうやって!? 相手は、おとなしいといっても怪物じゃないか……そんなことが、できるものか!」  ヴィダルが驚いて言い返す。 「いや、それができるんだ。俺がやったことがある、というわけじゃない。だが、村では、誰《だれ》もがそう教わってきているんだ。荒原で水に困ったら、泥牛の背に乗れ、という……。わかってるさ、振り落とされるにきまっている、と思っているんだろう? だが、やってみる価値はある。たとえ一里でも二里でも、泥牛につかまって前進できれば、それだけ水場に近づけるんだ。どうだ、ヴィダル、試してみないか? この場所にしがみついて、あんたの食料を食いつぶしているよりは、はるかに希望の持てる話だと思うが」  雷は強い調子で、そう説明した。 「うむ……村の言い伝えか……」  ヴィダルは決心がつきかねるのか、顔をしかめて考え込む。 「いいが、ヴィダル。あんたはまだ見ていないから心配するが、泥牛の背中というのは、十人くらい平気で乗れるほどの広さがあるんだぞ。俺たちは、ただ、そこに揺られていればいい。それだけで、ともかく、水のある場所へ出られるんだ。少なくとも、そこに近づけるんだ!」  雷は右手のこぶしをふるって力説した。 「よし、わかった……」  ついに、ヴィダルも決心を固めたらしい。 「雷、じゃあ、こうしよう。その箱の中に、パラ・ガンの新しいチューブがある。それを銃に再装填《そうてん》して、わたしに預けてはくれないか」 「なんだと!? この俺をどうしても信用しないのか!?」  雷がちょっと気色ばんで訊《き》き返す。 「いや、信用できないのは雷じゃなくて、その泥牛の方だよ」ヴィダルは弱々しく笑って続けた。 「わたしはやはり、心配なんだ。見ての通り、わたしの身体《からだ》は、まだこんな状態だ。もし、あの怪物がいきなり暴走をはじめたり、背中の荷物、つまりわたしたちを邪魔に思って、振り落とし、押しつぶそうとでもしたら、わたしはどうする? わたしには、ひとりで逃げる力もない。だから、もし、そんな気配が見えたら、わたしは即座に、この銃でやつをまた眠らせてしまおうと思う。どうだろう、その程度の対策は必要なんじゃないのか?」  ヴィダルの言葉に、雷はあっさり同意した。 「そいつはいい考えだ。俺も、こんな計画を持ち出しておきながら、やはり不安には思っていたところだ。いくらおとなしいとはいっても、なにしろあの図体だ。ちょっと機嫌でも損ねられたら、俺たちなど、ひとたまりもないからな」  雷は言って、パラ・ガンをぽいとヴィダルに放った。 「さあ、チューブとやらをつめかえてくれ。俺は荷物を運びはじめなきゃならん。あいつが先に目を覚まして、どこかへノコノコ逃げてしまわんうちにな」  雷は、まず手近かな自分の雑嚢に、食料や水筒をつめこめるだけつめこんで立ち上がる。  大急ぎでそれを泥牛の背中に放り上げ、また、窪地にとって返した。 「さあ、ヴィダル、行くぞ。この箱はかさばるばかりだから、ここへ置いてゆく。中身だけ、そのボロにでもつつんで持って行こう。急げ、やつはそろそろ気がつきはじめているぞ」  雷は、昨夜、ヴィダルに貸し与えた上衣を地面に広げ、そこに、残りの食料や水、雑品を積み上げた。  両腕が使えるヴィダルが、それを手際よくくるんで、小さな包みをこしらえる。  箱の中身すべてを運ぶことはできそうにないが、なかには、雷にとって見当もつかない未知の品物も含まれており、雷は、警戒心も働いて、それらを荷物から排除した。  また、とんでもない機械でヴィダルに裏をかかれてはたまらない、と思ったのだ。  しかし、食料と水は残さず選びだした。  荷物をヴィダルにもたせ、雷は右肩を貸して、彼を地面から立ち上がらせた。  なんといっても、ヴィダルは大変な長身だ。  雷よりも首ひとつは確実に背が高い。  そんな彼を半ば担ぐようにして、雷は歩きだした。  身動きもできなかった昨夜に比べ、ヴィダルはともかくも、重病人程度には手足を操れるようになっていた。 「しかし……なんて重力なんだ……」  よろめき進みながら、ヴィダルがつぶやいた。 「なにもかもが……重い……骨が折れてしまいそうだ……」  ヴィダルは、数歩歩いただけで、もう息を切らして、そう呻《うめ》いた。 「�重い�だと?」雷がその言葉を聞きとがめた。「……そういえば、前にもそんなことを言っていたな。地球の大重力がどうのこうのと……それは、どういう意味なんだ?」 「うむ……」ヴィダルは苦しそうに答える。「雷は知らないだろうが……いいかね、あの月の世界では、すべてのものの重さが、この地球の六分の一なのだ。……わたしは、その月の世界で、生まれ、育った。分るかね? わたしは、この地球では、ただ、こうして身体を動かすのに、月にいた時より、六倍以上の力を出さなくちゃならない……次第に慣れてきつつはあるのだが……くそっ……それでも、つらい……つらいんだ」  雷が担いでいるヴィダルの身体は、その長身の割には軽く感じられた。  しかし、それでもヴィダルには、自分の身体が重くてしかたがない、と言う。  月と地球のそんな違いを聞かされても、雷にはまるで、おとぎ話か、魔法の世界の物語のようにしか受け取れなかった。 (やはり、天界と下界の間には、俺には想像もできないへただりがあるのだ……)と雷は思った。(……つまり、下界は天界に比べて、六倍以上住みづらい場所というわけなのだろう……)  岩場をようやくのことで乗り越えると、泥牛ののっぺりと弛緩《しかん》した、だだっ広い背中が見えた。  ヴィダルが一瞬、身を固くして、尻込《しりご》みする。 「な、なんだ、こいつは……これほど、でかいやつとは知らなかった……」  先ほど、その頭部にパラ・ガンを連射したとはいえ、全体を目にしたのはこれがはじめてだ。ヴィダルがおびえるのも無理はない。  雷は、そんなヴィダルを引きずるようにして、うずくまる泥牛の後肢にとりついた。 「ここから、上によじ登るんだ。荷物は俺が放り上げてやる。そら、がんばれ!」  泥牛の皮膚には、乾いた泥と汚物がこびりついていて、手がかりにとぼしかった。  しかし、そのところどころに、人間の指ほどもありそうな太い剛毛が、まばらに生えている。  それにしがみつきながら、ヴィダルは死にもの狂いで泥牛の背に這《は》い上がった。  それを下から支え、押し上げてやってから、雷も勢いをつけてそこに跳びのる。  その時、ようやく麻痺から醒めかけたらしい泥牛が、不機嫌な唸《うな》り声を洩らした。 「そら、やつがそろそろ動き出すぞ。なるべく、背中のまんなかに寄って腹ばいになるんだ。荷物はしっかりかかえこめよ。それを落としたら、飲まず食わずで行かにゃならん!」  雷は低い声でそう注意を与え、自分の雑嚢の負いひもを、ひじから先のない左腕に巻きつけた。  そうしておいて、泥牛の背中に生えている剛毛に指をからみつかせる。  ヴォ! ヴゥォ!  ヴォッ! ヴォッ!  泥牛が短く咆《ほ》えた。 「雷! だいじょうぶか!? ほんとうに……」  汗に濡《ぬ》れたヴィダルの全身は、はっきりそれと分るほど震えている。  彼の右手には再装填されたパラ・ガンが握りしめられていた。 「心配するな。それより、無闇《むやみ》にそいつをぶっ放すんじゃないぞ! かえって泥牛が暴れ出さんともかぎらん」  雷も不安で顔面をひきつらせながら、ヴィダルをたしなめた。  その時、ぐらりと、だだっ広い背中が揺らいだ。分厚い皮膚に覆われた胴体の筋肉が、ぶるぶると波打つ。 「気をつけろ! やつが立ち上がるぞ、振り落とされるんじゃない!」  叫びながら、雷も必死で泥牛の背中にしがみつく。  がくん、がくん、と突き上げられるような衝撃があって、どうやら泥牛は、短い四肢を踏んばって立ち上がることに成功したようだ。  ヴォッ! ヴォッ! ヴォッ!  泥牛がさらに不機嫌そうな唸り声を上げた。  怪物の鈍い神経でも、どうやら自分の背中にふつうではない重さが加わっていることを感じるらしい。  しきりに首をめぐらして、背部を見ようとする。  しかし、その頭部はほとんど胴体に直結しているため、どうしても自由に後方へ首をめぐらすことができないようだ。  やがて泥牛は、自分が何かを背負わされているのではないかという疑惑を忘れようとするかのように、ぶるぶると頭部を左右に振り、そして、重々しく歩きはじめた。  四本の足の真上にあたる筋肉が、その歩行動作につれて、うねるように盛り上がってはまたくぼむ。  しかし、背中の中央部は、その運動にさして影響を受けないらしく、静かな上下動を繰り返すだけだ。  自然、雷とヴィダルは、そこに寄りあって身体をのばした。  皮膚の表面に、いぼのような突起があるため、決して座りごこちがいいとは言えなかったが、ともかく、これでしばらくは、労せずして旅が続けられそうだ。  雷は、ヴィダルと自分の荷物を、そのいぼにひっかけて固定すると、改めて、ヴィダルの目をしげしげとのぞきこんだ。 「……どうだい、天界船とまではいかないだろうが、なかなかの乗り物だろうが……」 「あ、ああ……まったくだ……」とまどいがちに、ヴィダルは答える。「しかし、この怪物はどこへ行くつもりなんだ?……我々の食料を狙って首を突っこんできたぐらいだ。どうも、このあたりに水場があるとは思えないのだが……悪くすると、我々まで、この怪物といっしょに野たれ死に、ということになる……」  周囲の風景を眺めわたしながら、ヴィダルはまた心配をはじめる。 「それを考えても、しかたがなかろう……」  雷はちょっと投げやりな調子でそう言うと、自分の雑嚢をかきまわして、一枚のぼろぼろになった紙片をひっぱり出した。 「分るか? 泥牛は、いま、西へ進んでいる。俺の考えでは、この西にある渦《ウオ》川をめざしているんじゃないかと思う。あるいは、その支流か……もっとも、この地図は、大戦のはるか前に製作されたものだ。すでに地形がすっかり変わっていたり、川自体が蒸発している可能性もある……なにしろ、大戦前の知識は、この下界ではなんの役にもたたんのだから……」  雷は言いながら、八ツ折りになっていた紙片を泥牛の背中に拡げようとした。 「そ、それが、地図だな!? 見せろ、見せてくれ」  ヴィダルが目の色を変えて、それをのぞきこんできた。  そして、もどかし気に、そこに描かれた地形を読む。 「どうだ、分るか?」  雷はヴィダルの勢いに押されて、その地図を彼に手渡してやった。  ヴィダルはさらに熱心に、細かな地名を指で辿《たど》っている。 「そうか、うむ……これは、中国だ。中国の華北《かほく》平原一帯の地図だ……」  ヴィダルが唸るように言った。 「ああ、その中国という言葉は村でも聞いたことがある。周の一家は、その中国人の子孫だと名乗っていた。俺は……俺の祖先は、日本という国の出身だ」 「そうだったのか……うむ……」  ヴィダルはちらりと雷の顔に視線を走らせ、また、地図に目を落とした。 「……そうだろうな……天帝たちは、世界中が破壊され、じわじわと死滅しはじめたのを知って、各地区別に居留地《キヤンプ》づくりを進めていった。その際、国籍や民族、言葉などは無視して、とにかく近隣の地域から、健康な男女を無差別にかき集めたのだ。この東洋域などはまだいい……他の地域には、まるで人種の展覧会のような居留地もあるそうだ」  ヴィダルは複雑な表情で、説明した。 「…………」  雷は、天帝の名を耳にして、沈黙した。  再び、自分を見舞ったこの運命に対する、言いようのない怒りがぶり返してきたのだ。  しかし、それは、ぶつける相手のいない、行き場のない憤りだった。 「……雷、それで、我々はいま、どこにいるんだ? それを教えてくれ」  ヴィダルが地図を差し出した。 「……ああ」  雷は物思いにふけりながら力なく応《こた》え、それでも手をのばして地図上を指でなぞった。 「この黒いシミがあるだろう、ここが俺たちの村、夏古のだいたいの場所だ。そして、俺はここから西へ進んできた。今は、おそらくこのあたりだろう」  雷が示した場所のさらに左側には色褪《いろあ》せた青色で川が描かれている。 「これが、渦川だな?」とヴィダル。  雷がうなずく。 「……分ってきたぞ、この北にあるのが黄河だ……とすれば、そうか……太行《タイハン》山脈まで出るのも夢ではない、ということになる……そうなんだ、夢じゃない! 距離にして、二百キロ、あるかないか、だ……」  ヴィダルの口調が突然、熱を帯びた。  不審に思って、雷も顔を上げる。 「なんだ? その、タイハン山脈というのは……」 「うむ、ここだ……そうだ、まだ望みはある。この山脈の南端まで辿りつくことができれば……そうだ、わたしたちにも、望みはあるんだ!」  ヴィダルの指が、地図の一点に強く押しつけられている。  その指先は、興奮のためか微《かす》かに震えている。 「なぜだ!? なぜ、そこへ行けば、望みがあるんだ!?」  ヴィダルのひとりよがりな興奮に苛立《いらだ》って、雷が鋭い口調で訊き返す。 「ここに、仲間がいるんだ。いや、正確には、仲間とは言えない。我々の長老格にあたる人物が、ここ、太行《タイハン》山脈の一角に幽閉されている……」 「どういう意味だ!? なんのことを言ってるんだ!?」  雷は思わず、ヴィダルの腕を掴《つか》んで詰問した。  しかし、ヴィダルは、独り言のように喋り続ける。 「……そうだ、カラとウラジミルそれに若い兵士だったサンドロやガリもいるはずだ、もし生きのびているならば……覚えているとも、ここへ彼等を運んだのは、他ならぬ、わたしたちの部隊だったのだから……≪月の神殿≫……そう、そう名づけられた研究所だ、忘れるものか! そうなんだ、ここに彼等がいるんだ……」 「ちょっと待てよ、ヴィダル! ちゃんと俺に説明するんだ! さもなきゃ、ここから突き落とすぞ!」  雷は思わず、大声を張りあげた。  しかし、それが気に障ったのか、泥牛がびくんと胴体を震わせたのに驚いて、再び声を低くする。 「……ああ、ヴィダル、教えてくれ、頼む……」  雷に怒鳴《どな》りつけられ、身体をゆさぶられて、ようやくヴィダルも我に返ったらしい。  胸をはずませながら、じっと雷の顔を見返してくる。  その目には、今まで一度も見られなかった強い輝きが宿っていた。  二人が黙りこむと、泥牛は�ヴグッ�というような音を出して鼻を鳴らし、またもとのペースを保って西へ進みはじめた。  一見、極めて鈍重な動きだが、巨体に似合った大きな歩幅だけに、進んでゆく速度はなかなかのものだ。  すでに、あたりの風景には、明らかな変化が見えてきつつある。 「……ああ……」  ヴィダルが意味のないつぶやきを洩らした。そして視線を、雷の顔から、行く手に拡がる茶褐色の大地に転ずる。  ヴィダルはしばらく無言のまま、そうやって、はるか地平あたりに目をさまよわせているようだ。  何事かを、胸の内で整理している、そんな様子だ。  雷も今は沈黙して、じっとヴィダルの答を待った。  ついに、ヴィダルが雷に向き直った。 「いいとも、話そう……わたしたちの、ただひとつの希望を」  ヴィダルが、言った。  6 戦鬼の巣窟《そうくつ》  静かな晩だった。  いや、静かすぎる晩だった。  時々、風向きが変わると、腐りきった沼沢地が発する耐えがたい臭気が、この洞穴の奥まで流れこんでくる。  それに顔をしかめながら、雷とヴィダルは、残り少ない固型食料を口につめこんでは黙々と噛《か》みしめる。  二人の前では、みじめなほど小さな焚火《たきび》が、ちろちろと燃えて、彼等の顔をまだらに染めていた。  泥牛の背に、丸四日揺られて、着いた場所がここだった。  確かに、その泥沼は、泥牛という名の生き物にとっては天国のような場所なのかもしれなかった。  しかし、人間が生きてゆく上で、その水たまりは何の役にも立ってくれそうになかった。むしろ、一帯の得体の知れぬ瘴気《しようき》が、二人から、すっかり生きる気力を奪い去ってしまっていた。 「……まさか、これが渦《ウオ》川だというんじゃないだろうな……」  雷がやけっぱちな調子でつぶやいた。 「いや、しかし、その地図を信用するとすれば、やはり、渦川の名残りと考えた方がよさそうだ」  ヴィダルは案外はっきりと、そう言いきる。 「月面の学者が整理した戦史によれば、華北平原中央部は、大戦の勃発期《ぼつぱつき》に、熱核弾頭を何発か撃ち込まれているはずだ。このあたりに、核戦師団、つまり超軍団の本拠地があると思われていたからだろう。ともかく、それが、渦川を、この地獄のような泥沼に変えてしまったということは、充分に考えられる」 「……しかし、だとすれば、俺が考えていた奴等《やつら》の秘密基地というのは、とうの昔に消滅してしまっている、ということか……」  雷が唸った。 「いや、そうは言えまい」ヴィダルは首を振った。 「そうした核攻撃に耐えて、なおも生き残るために師団や基地は準備されていたはずだ。しかも、ここへ辿りつくまでの間に、あの泥牛は、何度も、重戦闘体がめちゃくちゃに掘り返したわだちの跡を横切ったじゃないか。ということは、彼等もまちがいなく、この方面を目指して西進していた、ということだ。あるかないか分らない秘密基地へ向かって、あれだけ大規模な移動を、彼等が敢行するとは思えない。つまり、ここから遠くないどこかに、彼等の基地が隠されている、ということだろうが……」  ヴィダルは、雷の顔を盗み見るようにして、言葉を切った。 「ああ……俺の、この旅の最初の目的は、それだったんだ。それさえ、一目見れば、死んでもいい、と思っていた。だが、あんたから聞かされた�希望�には、心を動かされたさ。俺もすっかりその気になっていた。しかし、そのためには、なにより水が必要だ。……つまり、渦川がちゃんと流れてくれていることが条件だったんだ……それなのに、この糞《くそ》だめのような泥沼はなんだ!?」  雷は、全身を犯しはじめた無力感に抵抗するかのように怒鳴った。 「……そうだ、その通りだ……」  ヴィダルは静かに応えた。  そして湿り気のとれていない腐木を、焚火に投げこんだ。  じゅうじゅうという音とともに、悪臭のある煙がたちこめてくる。 「……そこで、我々にできることは、とりあえず、ふたつだ……」  ヴィダルが続けた。 「この水たまりが渦川だと仮定して、きれいな水が残っている場所を探すために上流へさかのぼる……そして、飲料水の確保ができてから≪月の神殿≫をめざすか……あるいは、ここにとどまって、水筒の水が続くかぎり、超軍団とやらの本拠地を探しまわるか……」  焚火をかきまわしながら、雷がぽつりと言う。その顔は、苦悩に歪《ゆが》んでいる。 「……ヴィダル」 「ん?」 「その≪月の神殿≫まで、ここからどの位かかると思う?」雷が訊いた。 「距離にして、百五十キロから、百七十キロといったところだろう。ただし、現在位置も正確には掴めないのだから、これはあくまでも推測だが……つまり、きみたちの単位で言えば、四十里ほどか……一日、五里進むとして、八日……まあ、十日はかかると見た方がいいだろう」  ヴィダルが答えた。 「なによりも、水だ。このまま、北へ進めば、黄河にぶつかるというが、その黄河だって、どうなっているか分ったもんじゃない。だいいち、黄河まで行きつくにも、まず、水が必要だ……」  雷は混乱してわめいた。 「どうすればいい、どうすればいいんだ、え!? 俺はあんたの話を聞くまで、ただ、超軍団を見て死ぬつもりだった。ところがあんたは、≪月の神殿≫へ行きさえすれば仲間がいる、その仲間と、この地球のために仕事をしよう、新しい人生をはじめよう、と言って俺の心を動かした。それだけじゃない。もし、その仲間たちが万が一死に絶えていたとしても、≪月の神殿≫には、とてつもない大望遠鏡がしつらえてあって、天界の楽園を、まるで手にとるように観察することができる、と教えてくれた。それを覗《のぞ》けば、あの天界の建物や街路のひとつひとつまで見分けることができる、とあんたは言った。……ああ、俺は確かに、それが望みだ。あの天界を、この目でにらみつけてやりたい……俺の妻だった女、小美が住む夢の都の様子を、ひと目、ひと目だけ確かめてみたかった……いまでも、俺は、それが望みだ……だが、しかし、どうすればいい? この糞ったれな土地で、ただ何もせずに野たれ死ぬのだけは、どうしても嫌だ。俺のために納得できる死に方を選びたい、それだけだ。そのために、俺は、俺は、どうすればいいんだ……おい、ヴィダル、教えてくれ。俺はあんたの話など、聞かなければよかったと思っている。そうすれば、迷いなどなにもなしに、死に場所を探しに出かけられるんだ……」  雷は叫び疲れたのか、ついに頭をかかえて黙りこんだ。 「…………」  答える言葉もなく、ヴィダルは、そんな雷から顔をそむけた。  そして、洞穴の地面に座り直すと、手足の屈伸運動をはじめる。  泥牛の背に揺られながらも、ヴィダルはこうした軽体操で、次第に自分の身体を鍛えていた。  今では、小走り程度には、自力で動き回れるようになっている。  実際、ヴィダルはその努力を無駄に終らせるつもりはなかった。  たとえひとりでも、彼は≪月の神殿≫を目指す決意を固めはじめていた。 ≪月の神殿≫……そこには、ウラジミル、カラといった学者とともに、かつての部下サンドロやガリがいるはずだった。  彼等《かれら》は今から十年ほど前、追放同然の形で、天界から地球へ送られた人々だった。  彼等は、科学者としての良心から、滅亡同然の地球世界に対して、より積極的な救済処置を行なうべきだと主張して、天帝や側近グループと対立した。  彼等は、力筒《チユーブ》の独占と、それによる搾取の構造が、地球世界を徐々に衰亡させている、として、主に力筒生産に関する知識を、居留民に公開しようと計ったのだ。  しかし、それを容認するほど、天界の支配者たちは人道主義的ではなかった。  天帝とそのグループは、ウラジミルやカラといった高名な科学者に対して、あからさまな迫害は行なわなかった。  そのかわり、彼等は、科学者たちのために、地球上に研究所を設けてはどうか、という提案を行なった。  それほど地球のことが気がかりなら、そこへ行って暮らすがよかろう、という態度に出たのだ。  それが≪月の神殿≫だったのである。  これは体のいい追放であり、幽閉と言えた。  ウラジミル、カラに加えて、その同調者と見られていた若い兵士二人も、従卒という名目で地球へ送られた。  そして、その兵士たちの上官だったヴィダルが、天界への忠誠の証《あか》しとして、彼等四人を地球へ送り届ける任務につかねばならなかったのである。  しかし、以後——  天界の倫理的な堕落は急速に進んでいった。 �送還�という名の追放の嵐《あらし》が吹きまくり、天帝とそのグループに対して何らかの意見を述べようとする人物は、ことごとく、下界、すなわち地球へと放り出された。  それは多くの場合、死刑と同じ意味を持つ処置と言えた。  そしてついに、ヴィダルまでもが、こうして重力地獄と闘わねばならないはめに陥っていたのだ。  黙りこんだ雷を無視して、ヴィダルは体操を続け、屈伸運動から腕立て伏せに移った。  ともかく、この先どのような事態が待っているにせよ、最低限の体力は身につけておきたかった。さもなければ、最も愚劣な死に、いとも簡単に巻きこまれてしまうに違いない、という予感があった。  しかし、それにしても、この余りにも脆弱《ぜいじやく》な筋肉が力を持つのと、手持ちの食料や水がつきるのと、どちらが早いかを考えると、ヴィダルの気持ちはくじけた。 「ハア……ハア……ハア……」  これまで最高の腕立て伏せ五回をやりとげて、ヴィダルは洞穴の地面にうつ伏せに崩折れた。  鼓動が早鐘のように打っている。  それに自分で聞き入りながら、頭を地面に押しつけたまま、ヴィダルは深呼吸を繰り返す。  そんなヴィダルの荒い息が、突然、ぴたりと熄《や》んだ。  喉《のど》でもつまらせたのではないかと慌てた雷が、はっと顔を上げる。  しかし、ヴィダルは、別に苦しんでいる様子はない。  ただ、その目は、恐怖と驚きのために、まん丸に見開かれている。 「ど、どうしたんだ、ヴィダル!?」  しかし、ヴィダルはそれに答えず、なおも息をつめたまま、地面に耳を押しあてている。 「……なんだ、どうした?……」  さらに問いかけようとした雷も、ようやく何かの気配を悟って、がばと身を伏せ、むき出しの地面に耳を近づけた。 「……雷、聞こえるだろう?……何かが来る……やってくる……」  ヴィダルが絞り出すような声で言った。  雷も、今、それを聞いていた。  確かに、何かが、来る。重い轟《とどろ》きが、この洞穴の中まで、次第に大きくなりながら響いてくるのだ。  雷は、それと同じ震動を、あの荒原で聞いていた。 (……まちがいない……この音は……) 「軍団だ! やはり、ここいらにひそんでいたんだ。こっちへ来るぞ! 奴等に見つかったら、まず一瞬だって生きてはいられない!」  雷が叫んだ。  そして一挙動で跳ね起きると、大急ぎで小さな焚火を踏みにじる。 「行こう! ヴィダル、ともかく行って、奴等の姿をおがんでやろうじゃないか。考えるのは、それからだ」  雷が押し殺した声で鋭く言い放った。 「よし、行こう。そのかわり、今夜は無茶なことはしないと約束してくれ」  闇《やみ》のなかで、雷の身体にしがみつくようにして立ち上がったヴィダルが言う。 「分ってる、約束しよう」  雷は答え、這いずるように、洞穴の入口を目指した。  外には柔らかな月明りがあった。  満月近い巨大な月は、今、まさに上りはじめたところだ。  しかし、二人とも、それを眺めようともせず、小走りに洞穴から駆け出した。  すぐ、手近かな岩の陰にとりついて身を隠す。  この一帯には、奇怪な形の大小の岩山が、二つ、三つとグループをつくって散在していた。  そして、それらに囲まれるようにして、以前は渦川の一部であったのかもしれない、腐りきった泥沼がよどんでいる。  その臭気に鼻をつまみながら、雷とヴィダルは、ゆるゆると岩づたいに見晴らしのいい場所をめざして斜面を登っていった。  轟音《ごうおん》と震動は、ますますこちらに近づいてくる。  それは、北側の荒原から渡ってくるもののように思われた。  やがて、一帯の岩山群がほぼ見晴らせる一角に出て、二人は動きをとめた。  雷はともかく、ヴィダルはもう一歩も動けないといった様子で、ぜいぜい喉を鳴らしている。 「よし、ヴィダル、あそこに隠れよう。あの窪《くぼ》みだ」  雷が、人間ふたり、すっぽりと身を潜められるくらいの岩の窪みを指差した。 「……あ、ああ、そうしよう……」  ヴィダルも最後の気力をふりしぼってそこに転がり込む。  と、その時だ。  彼等のちょうど正面にあたる巨岩の背後から、唐突に、黒い軍団が姿を現わしたのだ。 「き、来たぞ!」  ヴィダルが悲鳴のように短く叫ぶ。  まず姿を見せたのは、小型の重戦闘体《H・B・U》一基だ。  原子力エンジン特有のガーガーとやかましい機関音が、さらにすさまじい谺《こだま》となって一帯の空気を震わせる。  そして、その戦闘体《バトル・ユニツト》の後には、総勢六十人ほどの歩兵が、皆自転車にまたがって続いている。  その光景は、考えようによってはこっけいなものであり、また、それ以上に悪魔的だった。  大戦の終結から幾世代も経《た》って、未《いま》だになお、自分たちの闘いを終らせることができない彼等師団員の末裔《まつえい》は、すでに人間であるよりも兵器の一部に近いと言えた。 「……どうやら、軍団の本隊ではないらしい……しかし、あんな戦闘体《B・U》を持っているんだから、ただの掠奪兵団《りやくだつへいだん》とは格が違うようだ……」  雷が声をひそめて、そう言った。 「……ああ……核戦師団の支隊だろうか……あの人間たちを見ろ、まるで青鬼のような形相だ……」  応えるヴィダルの声は震えている。 「……なんだ、奴等、こっちへ来るぞ……」  窪みから片目だけをだして一隊の動きを追っていた雷が、不安そうにつぶやいた。  そのまま、目の前を横切って広い原野部へ出て行ってしまうかと思えたその軍団だが、どうもそうではないらしい。  彼等はいったんそこで隊列を単縦陣に組み直し、大きく直角に変針すると、まっすぐに、雷とヴィダルが潜む岩山めがけて進んで来るではないか。 「ま、まさか、見つかったんじゃなかろうな……?」  雷が、慌てふためいた様子で身じろぎする。  こうなっては、まるで、追いつめられたネズミ二匹といった格好だ。  逃げようにも逃げ場などどこにもない。  戦闘体の前照燈が、一瞬、さっと二人の半身を舐めた。 「ひいっ!」  ヴィダルが消え入りそうな、小さい悲鳴を上げた。 「くそっ……どうするつもりだ?……なんで、この岩山に用があるんだ……」  いよいよ接近してくる軍団の意図を計りかねて、雷が呻いた。 「雷……まさか、とは思うが、あり得ないことではない……もしかして、奴等、我々の匂《にお》いでも嗅《か》ぎつけたのかもしれないぞ……」  ヴィダルが気味の悪いことを言う。  なにしろ、相手は通常の兵士ではない。それを思うと、雷の背中に悪感が走った。 「よし……万が一、ということもある……」  雷は腹をきめた。  そっと腰のベルトから拳銃《けんじゆう》を抜く。  それを見て、ヴィダルもパラ・ガンを掴み出した。  こうなったら、とにかく一人でも地獄へ道連れにしてやろう、と雷は思った。  そして最後の一発は、自らの苦しみを切り上げるために……。  雷は目顔でヴィダルに決意を伝えると、パラ・ガンの出力を最高に上げさせた。  震えながらも、ヴィダルはきっぱりうなずき返してくる。  二人はそれぞれの銃把を握りしめた。  そして、待った。  明るすぎるほどの月光が、軍団の姿をはっきりと浮かび上がらせている。  兵士たちが着ている、灰色の、砂漠用迷彩服の細かな模様までが見てとれる距離だ。  にもかかわらず、彼等はなおも進軍をやめない。  先頭の戦闘体《B・U》は、すでに、二人の真下、つまり、岩山に衝突しそうな位置まで進んできている。 「…………!?」  雷が思わず声を上げそうになったその瞬間——  突然、ギュル、ギュルル、ギューンと甲高い音が響きわたった。と同時に、重戦闘体《H・B・U》の無限軌道の動きが停止した。  と、すぐさま、戦闘体の天蓋《てんがい》が、ばたんと跳ね上げられる。  そして、灰色のヘルメットで頭部を覆った指揮官らしい男が、そこから首を突き出した。 「中隊ーっ、とまれ!」  回転を落としはじめた原子力駆動装置の音にかわって、その男の大音声があたりに響く。  すると、後に続く、六十人ほどの自転車部隊は、いっせいにペダルから足をはずし、よく訓練された機械のような動きで、単縦陣を解くと、次のひと呼吸で、一列、七人ずつの隊列を組み終えた。 「中隊、小休止!」車上の男が再び叫んだ。ごくり、とヴィダルが生つばを呑《の》む音が聞こえる。 「ヴィダル……分るだろう? 彼等の言葉、あれは、俺たち居留民と同じ言葉だ……」  雷がかすれたような声でヴィダルに告げた。  耳にさした翻訳器の末端を手で押えながら、ヴィダルもそれに同意する。 「……東洋域の共通語だ。日本、中国、朝鮮などが、共同戦線を張っていた時代に、主に軍隊内で使用された人工言語だったのだが、それがいつの間にか民間にも広まったのだ……」  ヴィダルが雷の耳に口を寄せて説明する。 「ほんとうか? 俺たちの言葉が……」  驚いて訊き返そうとする雷を、ヴィダルは押しとどめた。 「待て……奴等が何かをはじめる……」  二人は再び窪みから目だけを外に出し、そして息を殺した。  今、戦闘体《B・U》から、指揮官らしい男が、地上に降り立とうとしていた。  六十人の兵士は、直立不動の姿勢を保って、それを待ちうけている。  男は、いったん兵士たちに向かって、何事か短い号令を発した。  それに対して、彼等は「ウォーッ!」というような恐ろしげな声で応える。  そして、いっせいに肩の小銃をとり、捧《ささ》げ銃《つつ》の敬礼を行なった。  それを受けて、指揮官はゆっくりと岩山に向き直った。  つまり、雷とヴィダルの方へ顔を向けたのだ。  そのまま、見上げれば、もろに視線がからみあうことになる。  二人は胆《きも》をつぶして、頭を岩の陰にひっこめた。  その時である。  男が、前にも増した大声を張り上げた。 「東方紅《トンフアンフオン》、太陽昇《タイヤンシヤン》!」  一語一語区切っての発音だ。岩陰に身を潜めている二人にも、その言葉ははっきりと聞きとれた。 「な、何と言った!? どういう意味だ?」  雷がとまどって、ヴィダルに訊く。 「分らん……中国語のような気が……待て、今、翻訳器のチャンネルを変える」  ヴィダルが慌てて、喉元の器具に手をやった時、また、男が叫んだ。 「東方紅、太陽昇!」  続けて、もう一度。 「分ったぞ、やはり、中国語だ」素早くチャンネルをもどしながらヴィダルが説明する。 「�東の空が明るい、太陽が昇る�という意味だ」  ヴィダルがそう言い終らぬうち、突然、二人が隠れている岩の窪みがぎしぎしと軋《きし》みはじめた。  いや、それだけではない。  次の瞬間、岩山全体が、すさまじい音をたてて、震動を開始したのだ。  まるで、山自体が、今にも噴火をはじめそうな揺れ方だ。  二人は完全に動転して、わけも分らず手近かな岩にしがみついた。  一体、何が起こったのか、起こっているのか……二人には見当もつかない。  頭上からは、パラパラと小石や土砂が降ってくる。 「雷、雷ーっ!」  ヴィダルがたまらず絶叫した。  しかし、そんな声を押しつぶして、岩山は鳴動を続けている。  と、不意にあたりが静まり返った。  揺れはじめたと同じ唐突さで、鳴動が熄《や》んだのだ。 「……む、むむ……」  怖る怖る、雷は頭をもたげる。  そして、同じように顔を上げたヴィダルと目を合わせた。 「中隊ーっ、進め!」  再び、岩山のふもとから、あの号令の声が響いてきた。  雷は好奇心に負けて、岩陰から片目だけを出し、ふもとの様子をのぞきこんだ。  そして、思わずヴィダルの腕を掴み、彼を自分のかたわらに引き寄せた。 「み、見ろ! あれは、なんだ!?」  雷が呻いた。 「あ……!?」ヴィダルも驚きのあまり、絶句する。  その光景は、不可思議というよりも、二人には到底信じがたいものに見えた。  なぜなら、眼下に並ぶ六列縦隊の兵団が、そのまま隊列を崩さず、まっすぐに岩山めがけて行進を開始していたからである。  しかも、その隊列は、先頭から次々と、岩山のふもとに吸い込まれていってしまう。 (どういうことだ!?)とヴィダルが雷に目で問いかけてきた。 (…………?)しかし、雷も首をひねるばかりだ。  そうするうちに、兵団の姿はすっかり岩山の中に消えてしまった。  ふもとにはただ、原子力エンジン搭載の戦闘車と、歩兵が乗りすてた自転車群だけがとり残されていた。  冷えはじめた戦闘体の車体が、きりきりと軋む音が二人のところまで響いてきた。  と、再び岩山が震動を開始した。  しかし、それも長くは続かない。嘘《うそ》のように、荒野は静まりかえった。兵団員全員が、今やひとり残らず、岩山の中に消え去ってしまったのだ。  想像できることはただひとつだった。  岩山と見えるのはただのカモフラージュで、この岩塊の内部にこそ、彼等の根拠地、補給基地が隠されているのだ。雷は、そう確信した。  彼等はいずこからか今帰還し、言葉の鍵《キイ》で扉を開いた。そして、その隠された兵舎へと姿を消したのだ。 「待ってろ、確かめてくる」  雷は小声でヴィダルに告げると、ひとり岩づたいに、下へ降りはじめた。小石ひとつ落さぬように、細心の注意を払いつつ、手がかり、足がかりを探る。  ひょっとすると、とてつもない幸運とぶつかったのかも知れない、と雷の胸は高鳴っていた。  もしここが想像通り軍団の秘密基地であるとしたら、内部はまちがいなく宝の山だ、と彼は思ったのである。  核攻撃を生きのびて、なおも百年以上戦闘能力を喪失しない軍団……それを支える軍事物資が膨大でないはずがない。  武器、食料、それに車輛《しやりよう》……なにより、雷はこの先長い旅が続けられる�足�を確保したかった。  ここから運良く脱出して、≪月の神殿≫を目指すにしても、荒野を徒歩だけで乗り切るのは難しかった。  とくに、ヴィダルの体力がもたないのは目に見えている。 (自転車でもいい……できれば居留地にもあったような軽地上車が欲しい……どうにか奴等のスキを突いて盗み出せないものか……)  雷は自分の大胆な考えに自分で驚きながら、音もなく岩山から滑り降りた。  兵団が姿を消した岩山のふもとへと回り込んでゆく。  どうやら歩哨《ほしよう》は立っていないようだ。  雷はなおも慎重に岩の陰を伝って進んだ。  やがて、大勢の足跡が、岩山の下に消えている場所にやってきた。やはり、想像は正しかったようだ。大きな岩が地面を滑った跡も見分けられた。  いよいよ皓々《こうこう》たる光を投げかける月の明るさで、すべてがはっきりと見てとれた。  そればかりか岩のすき間から、内部の光が洩れ出ている所さえある。  この無人の荒野にあって、彼等は何者も警戒してはいないらしい。  雷は思わず片頬《かたほお》に笑いを浮かべた。  運が向いてきたのかも知れなかった。雷は来た時と同じようにひっそりと、ヴィダルの待つ岩山の窪みにとって返した。  見てきたものを小声で報告する。  そして自分の計画をヴィダルに告げた。  驚きの悲鳴を上げそうになるヴィダルをなだめ、雷はともかく岩の陰に身体を横たえた。  今は、眠ることだ。それしかなかった。  そして、夜明けと、自分たちの運を確かめる機会を待つのだ。  雷の頭の中で、空想や妄想が、ぐるぐると渦を巻きはじめていた。  7 包囲網突破 「どうだ……言った通りだろう」  昨夜と同じように装甲車を先頭に兵団は出撃してゆく。その姿を見送りながら、雷は得意そうに胸を張った。すでに陽《ひ》は高い。 「……しかし、あの扉が果たして開くだろうか……それに、たとえ、うまく開いたとしても、中に留守番の兵が居たら、たちまちこっちが殺されてしまう」  ヴィダルはまだ眉《まゆ》をひそめて計画の実行をしぶった。 「扉は絶対に開くさ。あの指揮官の声が鍵になっているとしたら開けることは不可能だったが、今朝、あの扉を閉じたのは他の兵士だった。つまりここの開閉は、言葉、単語だけが鍵なんだと俺は思う。考えて見れば当然のことだ。なぜなら奴等は軍隊だからだ。ひとりの声だけを鍵にして、そいつが戦死したら扉も開けられない、などという事をする訳がない。大丈夫、扉は開く」  喋《しやべ》りながらも、雷は慎重に、遠ざかる部隊の動きを目で追っていた。  単縦陣は砂けむりを残しながら、荒れはてた巨岩地帯の向こうに姿を消そうとしている。 「……それにだ。昨日の夜だって、奴等は歩哨すら立てていなかった。つまり全くここを警戒などしていないということだ。万が一守備兵を置いているにしても、一人か二人だろう。それなら俺たちで片づけられないことはない……」  部隊の後尾が完全に見えなくなったのを確認して、雷は岩陰から立ち上がった。 「行こう、ヴィダル!」  二人は岩づたいに山を降りた。そして、装甲車の駐《と》まっていたあたりへと近づいた。 「いいか、ヴィダル、パラ・ガンはかまえておけよ」  そう言うなり、自分も拳銃の撃鉄を起こした雷が、胸いっぱいに息を吸い込んだ。そして、叫ぶ。「東方紅《トンフアンフオン》! 太陽昇《タイヤンシヤン》!」さらに、二回、雷は同じ文句を繰り返し怒鳴った。  途端、山全体が鳴動をはじめた。  今にも、堆積《たいせき》している巨岩が二人めがけて崩落してくるような錯覚にとらわれて、二人は跳びすさる。  しかし、そんな心配は無用だった。  しっかり組み合っている岩々はその震動にもびくともしない。  そのかわり岩山の中央の割れ目は、今やはっきりと左右に開きはじめたのだ。 「やったぞ! ヴィダル、さあ、突っ込もう!」  そう叫んで、まず拳銃をかまえた雷がその割れ目に飛び込んだ。そして床に伏せて転がる。  だが、襲ってくる銃弾はない。  背後の岩の扉はなおも左右に大きく開き続けている。それにつれて、流れ込んだ朝の光が、その内部をはっきり照らし出して行く。 「……す、すごい! すごいぞ、雷!」  遅れて入り込んだヴィダルが息を呑んだ。 「宝の山だ! 思った通りだ、ここは軍事物資の貯蔵庫だったんだ。奴等の本物の補給基地だった! ついに、見つけたぞ!」  雷は獣のように唸り声を上げる。  まず、扉の右手には十数台にのぼる各種戦闘車輛がずらりと並んでいる。その奥にあるのは、大型の自走力線砲だ。口径が八十ミリに近いすさまじい代物だ。  左手は小ホールのようになっているが、その壁際にもびっしりと大小の火器、その予備パックが積み上げてあるのが見えた。 「おい! この奥は食料庫だ。缶詰だ、肉も、野菜も、何でもあるぞ!」  恐ろしさを忘れて、ふらふらと奥へ入り込んでいったヴィダルが叫び返してくる。 「よし、まずは、そいつで朝食といこう」雷も思わず大声を上げる。「それが済んだら、あの地上車に積めるだけ積みこんで逃げるんだ!」  どうやら、ここは間違いなく、大戦を生き残った超軍団の軍事貯蔵庫らしかった。  設備は相当に古ぼけているものの、全《すべ》てががっちりと機能しており、しかも未だに物資はあり余るほどだ。  それにしても、これだけの基地を運用している軍団である。人数的に支隊のようであっても、その戦闘力のすさまじさは、とても想像できかねた。冷酷さ、残忍さでも、掠奪団の比ではあるまい。  その部隊の追撃を思うと、思わず雷の背筋は震えた。  しかし、ここに蓄積されている物資はまだまだ膨大だった。地上車一台、それに食料を少々持ち逃げしたところで、彼等が本気で跡を追ってくるとは思えなかった。  大急ぎで、二人は腹いっぱい缶詰を食い散らかした。  すべてが戦前製だ。涙が出るほどうまい。  壜詰《びんづめ》の果汁を喉に流し込みながら、二人はいちばん軽快そうに見える地上車の荷台に、食料や武器、それに予備の燃料を積み込んで行く。  それは、雷がはじめて目にする戦前のガソリン車だ。しかし操縦装置は、力筒《エネルギー・チユーブ》で動く居留地の車とさほど違わない。アクセルとブレーキ、それに簡単な四段のセレクト・レバーがついているだけの全自動車輛だ。  雷がドライヴィング・シートに座《すわ》り試運転してみる。レバーを前に倒すと前進が二段、次が停車、後へ引くと後退だ。これなら片腕の雷にもなんとか操作はできる。  燃料計の針も充分な位置を示している。  にやり、と笑って、雷はエンジン・スイッチを切った。  その時である。入口の見張りに出ていったヴィダルが、息を切らし、必死の形相で駆けもどってきた。 「どうした!? なんだ、いったい……」  そう言いかけて扉の外に目をやった雷も、思わず恐怖の余り全身が縮み上がった。  作業に夢中になっていて、気づかなかったのだ。何と、出撃してしばらくはもどって来ないと信じ込んでいた軍団が、すでにこの根拠地を取り囲むように散開して、じりじりと距離をつめてくるではないか。 「雷、警報だ! きっと警報装置が働いて、奴等を呼び返したんだ!」ヴィダルがへたへたと地面にはいつくばる。 「く、くそっ……」雷は唇を噛みしめる。  しかし、頭が混乱して、身体は金縛りにあったままだ。  宝の山に注意を奪われ、逃れようのない罠《わな》にはまってしまったのだ。 「ど、どうする……」ヴィダルが、急に萎《な》えてしまったかのように力のない腕で、雷にすがりついてきた。  重戦闘体《H・B・U》を中央に、散開した兵団はなおもじりじりと距離をつめてきた。  歩兵は自転車をすて、それぞれ力線銃を手に匍匐《ほふく》前進してくる。  だが、まだ彼等は攻撃をしかけてこない。 (そうか……)ヴィダルはその理由に思いあたった。こちらの兵力が分らぬせいもあろうが、それより以上に、奴等はこの貯蔵所を破壊することを怖れているに違いなかった。なにしろここは、彼等の唯一の生命線なのだ。貯蔵されている物資が失われれば、彼等の運命はまちがいなく悲惨なものとなる。  それと、もうひとつ。今接近してくる軍団をまとめて葬り去るに充分なだけの武器もまた、こちら側の手にあるのだ。 「おい、雷……どうするつもりだ?……」  すっかり恐怖にとらわれて坐り込もうとするヴィダルに、雷は平手打ちをひとつ食らわせた。 「ヴィダル! しっかりするんだ。まだ殺されるときまった訳じゃない。俺たちが、ここから出ないかぎり、切札はこっちのものなんだ!」  そう叫ぶと、急に雷の身体は金縛りから解けた。 「急げ、ヴィダル! あの砲車をこっちに出すぞ。奴等にひと泡、ふかしてやるんだ!」  雷は身を翻して手近かな自走砲にとりついた。  大口径力線砲の砲口覆いをはずす。小口径の力線砲は居留地にも自衛用として数門備えつけてあったし、男達は皆その操作を知っていた。  口径が違うだけで、この自走力線砲も原理は全く同じだ。  まず、運転席にもぐり込んだ雷が、スターターを回す。  整備の行き届いているガソリン機関は、一発で轟音を上げて蘇《よみがえ》った。操縦は地上車とほぼ同じだ。ハンドルの形状がこちらは半月型というだけだ。 「よし! 動いた。大丈夫、こいつは片腕でも動かせる。あんたも、こいつをもう一台、入口に並べるんだ!」  雷が、おたおたとつきまとってくるヴィダルに向かって怒鳴る。  口から悲鳴を洩らしながらも、ヴィダルは雷の命令にしたがって、別の砲車にもぐり込んだ。そして、それを発進させる。  軍団はじりじりと包囲を縮めていた。しかし、ある程度の距離まで近づくと、そこに横陣を展開してうずくまる。  それと対峙《たいじ》する形で、雷とヴィダルは二台の自走力線砲を並べた。砲口を下げて照準し、最高出力で装填《そうてん》装置を開ける。  これだけの大口径の砲の性能は、雷にも全く分らなかった。しかし、戦闘となれば、三十発は瞬間再装填が可能なはずだ。  二人はおびえを突き抜けた高揚感に捉《とら》われはじめていた。  さっきまで泣き声を出していたヴィダルも、力線砲にとりついて、ようやく落ちつきをとりもどしたようだ。 (来るなら、来い!)ふたりは力線砲の引金に手をあてた。そして、待った。  ………… 「おまえたち! 取引しよう!」  いきなり、重戦闘体のスピーカーが大音声を発した。  びくり、とした拍子に危うく引金を絞りそうになって、雷は全身にどっと冷汗を吹き出させた。  こわばった指を無理矢理引金からはずす。 「見れば、小人数の部隊らしいが、我々の基地を占拠したとはいい度胸だ! だが、それまでだ。おまえたちに勝ち目はない」スピーカーが再びわめいた。  重戦闘体の天蓋を開けてマイクを握っているのは、昨夜見た悪魔のような顔つきの指揮官らしい。  照準スコープの倍率を上げると、その放射能焼けした鉛色の顔面が、怒りで引きつっているのも見えた。 「……だが、我々もここで無用な争いを起こして、貴重な物資を失いたくはない。分るだろう! だから、取引しようと言っているのだ。返事をしろ!」  男はマイクを振り回しながら続けた。 「取引だと? どういう取引だ!」  雷が大声で叫び返す。 「聞こえないぞ! ハンド・マイクがどこかにあるはずだ。そうだ、ライフル・キャビネットのあたりにある。それで喋るんだ!」装甲車の男が叫び返した。  それを聞いて、ヴィダルが意外にも素早い動きで、砲車から滑り降り、貯蔵庫の奥へと走り込む。  待つまでもなく、ハンド・マイクを探し出して、雷のもとへもどってきた。 「頼む、雷。すべて、おまえにまかせる」ヴィダルが青ざめた顔で、マイクを雷に手渡した。 「取引の内容を言ってみろ!」  マイクのスイッチを押して、雷が叫んだ。 「おまえたちは、どこの部隊だ? どちらにしても、虫ケラのような掠奪団の片割れだろう。まったく、いい度胸だ。その度胸に免じて、おまえたちに、みやげを持たして帰してやろうじゃないか。我が方はまだ充分な物資を貯えている。だがら、おまえたちにそれを分けてやることにする。そのかわり、それを受け取ったら、すぐにこの土地から立ち去れ。そして、この基地のことは永久に忘れるんだ。どうだ!? これが我々の条件だ」  男が怒鳴った。 「待て! 俺たちは戦闘員じゃない。ただの旅人だ。偶然、ここに入りこんでしまっただけだ。だが、こうなった以上取引したい。俺たちは、地上車を一台、それに少しばかり食料を分けて欲しい。自衛用に武器もいくらか必要だ。それを許してくれるなら、何もせずにここを出て行く。だが、もし俺たちの命を狙《ねら》うようなら、この力線砲で基地を破壊して俺たちも死ぬ。その覚悟はできている」  雷は手の内をさらした。それですんなり、この場を切り抜けられはしないだろう。だが、ここにいたってはったりをかましている余裕はなかった。 「なに!? 旅人だと?」男がとまどったように声を低くした。しかし、再びマイクを握りなおす。「分った! 地上車とそれ一杯の食料、それに武器、それでいいんだな? いいだろう、おまえたちの勇気に免じて、それで取引しよう。さあ、それだけ持って、早く出て行け!」 「指揮官! うれしいお言葉だが、俺たちの命の保証はどうなる? ここを出た途端に一斉射撃じゃ、取引にならない。何か保証になる提案が欲しい」  雷が抜け目なく叫び返した。 「保証だと? 我が部隊を信用しないと言うのか!? 大陸最強の第八特戦師団、そのなかでも特に勇名をはせた猛虎《もうこ》中隊の第十二代隊長たるこのわたしが、おまえたちに約束しようと言っているんだ!」  照準スコープに浮かぶ男の顔が、一瞬狂気じみた誇りに輝いたように見えた。 「信じていいのだな?」と雷。 「くどい! 嫌なら、すぐそこで死ぬがよかろう」男が大音声で応える。  その時、雷の視野の端を何かが横切った。 (…………?)と首を回した途端、わずかに砲の陰からのぞいた雷の頭を、力線が一閃《いつせん》してかすめた。 「畜生! だましたな!」  狙撃《そげき》だった。取引に夢中になって、接近してくる特攻兵に気づかなかったのだ。 「ワーッ!」となりの砲座から、すさまじいヴィダルの悲鳴が起こる。  慌ててうかがうと、片足をおさえたヴィダルが、砲車から転げ落ちるのが見えた。 (どうあっても、俺たちを殺すつもりなんだ!)雷は歯ぎしりして自分をしかった。  旅人だ、と素姓を正直に打ち明けたのが裏目に出たらしい。奴等は面子《メンツ》にかけて、侵入者を嬲《なぶ》り殺しにする気なのだ。もう迷っているヒマはなかった。  雷はいきなり、力線砲の引金を絞った。  ジュワッ!  反動も何もない。不気味な発射音を残して、火の玉のように見えるエネルギー塊が、重戦闘体《H・B・U》めがけて一直線にのびた。  しかし、やはり照準が甘かった。  第一撃は指揮官の頭上をかすめて、かなたへと消える。 (糞ったれめが!)  敵も、もうすべてを思いきったらしく、一斉射撃を加えてきた。  雷は慌てて砲車の装甲の陰に身をかくす。薄っぺらなものだが、小口径の力線銃くらいには耐えられそうだ。  指揮官も、すぐに戦闘体《B・U》の車内に頭をひっこめたのが見えた。天蓋がしまる。  雷はぐいと砲身を下げた。  そして、百メートルほどまでに接近して、小さな岩陰から狙撃してくる銃手に狙いをつけた。すぐに引金を絞る。  今度は命中だ。  岩ごと、狙撃手は蒸発していなくなる。すさまじい威力だ。次の目標へと砲身を回す。  さっき撃たれて転落したヴィダルのことが気になるが、今はとても助けにゆける状況ではなかった。  敵の歩兵は、こちらの射線を避けて、次々に突進してくる。その勇猛さは、それだけで雷をおじけづかせるに充分だった。  敵の放つ小口径力線が、砲車のあちこちに当ってははじけ飛ぶ。しかし、まだ装甲は破れない。  重戦闘体の巨砲もぴたりとこちらに向けられているが、基地の内部を破壊するのを怖れてか、今だに発砲しようとしない。  それだけが雷にとっての救いだった。  雷は不必要なほどの大口径砲身を振り回して、まるで蟻《あり》をつぶすように歩兵ひとりひとりをつぶしていった。  しかし、たちまち隊列は肉迫してきた。  その時である。砲車の側面扉をこじあけて、傷ついたヴィダルが自力で逃げこんできた。 「おい、大丈夫か!?」  撃ち続けながら雷が声をかける。  しかし、ヴィダルはうめき声で答えるばかりだ。狭い砲手席のなかに血の臭いが立ちこめた。ちらりと目をやると、片方の足がざっくりと力線で割られている。ほとんどもげて落ちそうな深い傷だ。 「クソッ! これまでか……」  歩兵はすでに砲車の車体にとりついてきた。  しかし、このまま座して死を待つ訳にはいかない。  雷はいったん砲撃をあきらめ、砲車の運転席に移ると、かけっ放しだったエンジンに、いきなりギヤを入れて発進させた。  キャタピラに乗っていた数人の歩兵が、急激な回転に巻きこまれ、悲鳴を上げながら押しつぶされる。  雷はそのまま砲車を全速力で前進させた。そして、また急停車させると、今度は基地内に向けて後退させる。  それを繰り返して、兵士をふるい落とそうと考えたのだ。  しかし、それも長続きする作戦ではなかった。業をにやした重戦闘体《H・B・U》が、味方の被害をかえりみず、砲撃を開始したからだ。  第一撃が、雷たちの乗った砲車の前部を大きくこそげとった。  衝撃で、雷は運転席からころげ落ちる。  打ちつけた額から血が流れはじめるが、今はそれどころではない。雷は転がりながら、そのまま、砲手席にとりつき、力線砲の砲身を回して、今度は敵の戦闘体に照準する。  こうなったら、刺し違えるしかない。雷は覚悟をきめると、連続的に発射の引金を絞った。  しかし、さすがに敵将が指揮車に選ぶ戦闘体だけのことはある。雷の放った力線はことごとくその万全の装甲にはね返された。  逆に、敵の力線が、また雷の砲車を派手にゆさぶり、一部を吹き飛ばす。  ただ、指揮車の砲撃を避け、歩兵たちはいったん後退したようだ。戦闘車輛同士の砲撃戦を観戦しようというのだろう。  もはや、雷たちに勝ち目はない。  敵の力線はこちらを徐々に破壊してゆくが、こちらの力線は敵に通じないのだ。戦闘の結末は余りにもはっきりしている。  敵はもう降伏を勧めようともしない。ただ的確な射撃で、脆弱な砲車の装甲を少しずつけずりとって行く。 「糞——ッ!」  雷は涙とも血ともつかない液体を顔面から拭《ぬぐ》いすてた。  そして再び照準器にしがみつく。その中央に敵の重戦闘体を捉えた。ただ、死を待つより、やるだけのことはやる決意だ。再び続けざまに引金を絞った。  ところが、その第三撃目に奇跡が起こった。  ほとんどあり得ないほど小さな確率の幸運が、雷たちに回ってきたのだ。  雷の放った力線が、なんと敵の砲口に命中し、そこをくぐって車内に突入したのである。  凶暴な外観の重戦闘体が、一瞬で火だるまとなる。砲塔がまるで紙かなにかのようにくしゃくしゃになって天高く吹き上げられた。もちろん乗員は全員即死だろう。  包囲する歩兵隊列も、たちまち大混乱におちいった。  しばらく、ただ呆然《ぼうぜん》とこの光景に目を奪われていた雷だが、背後から聞こえるヴィダルのうめき声で我にかえった。 「今だ! 逃げるなら、今しかない!」  狂気のようにわめきながら、雷は砲車の側面扉を蹴《け》り開けた。  そして、ありったけの力をふり絞ってヴィダルを肩にひっかつぐと、そこから這《は》い出す。  そのまま、脱出用に準備してあった軽地上車に向けて走った。  混乱する歩兵は、まだ雷たちの動きに気づいていない。 (今だ! 今だ! 今だ!)  雷はヴィダルを助手席に放り込み、自分の衣服を裂いて、傷口に巻きつけてやる。そんなことで止血の役に立つとは思えなかったが、片腕の雷には、それができるかぎりの処置だった。そして次の一瞬、雷は運転席にとび込み、アクセルを床まで踏みつけていた。  8 猛虎《もうこ》中隊の追撃  地上車のエンジンは、ともかくも金切り声を上げ続けている。  しかしその轟音とは裏腹に、前進は全く思うにまかせない状態だった。  荒れきった地表の不規則な起伏や、大小の岩、石、砂利が、車輪に噛《か》みついては上下左右に翻弄《ほんろう》する。  荒馬のようなその動きを、片腕の雷が、満足に制御できるはずがなかった。  彼はただひたすら、上半身と右腕でハンドルにしがみつき、つんのめったり、横転しそうになる地上車を必死の操作で立ち直らせるのが精一杯だった。  空転する車輪が巻き上げる大量の土煙で、背後はまるで見えない。  しかし、追手がついていることに疑いはない。  しかも、地上車は、まるでのろしのように砂塵《さじん》をかきたてて走っているのだから、敵にとってこれほど楽な追撃もなかろう。  だが、敵はまだ雷たちの地上車に射撃を浴びせてこない。  追手との距離が、射程以上に開いているか、あるいは彼等が、雷たちをどうしても生きたまま捕え、そのうえで嬲り殺しにしなくては気が済まない、と考えているのか、どちらかだろう。  雷の脳裡《のうり》に、一瞬、彼等の亡霊のような形相が思い出された。  生まれてから、ただ戦うことしか教えられてこなかったまぎれもない戦鬼たち……その彼等に取り巻かれ、生きたまま皮を剥《む》かれ、切り刻まれる自分を想像すると、いたたまれない悪感《おかん》が、全身を駆け抜けた。  こうなった以上、もはや雷たちに降伏は許されていない。  逃げ切るか、さもなければ、自ら死を選ぶしかないだろう。  前方に、ゆるやかに盛り上がった土手が見えてくる。  背後の敵が気にはなったが、車首をめぐらしてそれを確認する余裕はない。ともかくも走り続けるだけだ。  雷はいったんアクセルをゆるめ、素早く右手をハンドルから離してセレクト・レバーを切り換えると、再びエンジンを唸《うな》らせる。  地上車は背後から蹴り上げられたように前輪を持ち上げると、激しく蛇行しながら土手を駆け上りはじめた。  雷の隣りでは、半死半生のヴィダルが弱々しい呻《うめ》き声を上げている。  助手席はすでに血の海だ。  しかし、今は彼にどうしてやることもできない。  歯を食いしばって、雷はアクセルをさらに踏みつけた。  車体をぎしぎしと軋ませて、地上車は土手の頂上に跳び出した。 (…………!)  一瞬、雷は息を呑んだ。  そして思わずブレーキに両足をのせる。  地上車は右に半回転しながら急停車した。 (……川だ! 大河だ……)  見わたすかぎり、広大な河床がそこに広がっていた。  中央ににごりきった泥の流れがある。  もしそれがなければ、ただの谷状の地形と見誤まったかもしれない干上がった土地だ。  しかし、それがかつての大河の跡にちがいないことを雷は確信した。 「ヴィダル! 見ろ、あんたの言っていた川だ! 黄河だ!」  雷は叫んだ。  この川を越えれば、≪月の神殿≫まで二十里と少し。  微《かす》かな希望が、雷の胸のうちによみがえった。  見るとヴィダルも薄く目蓋《まぶた》を開き、身体《からだ》を傾けて眼下に横たわる河床を眺めわたしている。 「……黄河だ……そうだ、この川を……越えるんだ……」  口の端からどす黒い血をしたたらせながらヴィダルがつぶやいた。 「そうだ、ヴィダル! しっかりするんだ。逃げきってみせるからな!」  雷は怒鳴《どな》り、そしてヴィダルの肩ごしに、河床とは反対側の、走り抜けてきた荒原を見晴らす。  その途端、彼の視界を、真赤な火の玉がかすめた。  地上車のすぐ後方にあたる地面が、すさまじい高熱で湧《わ》き立つように爆発する。 (きたっ! 敵だ……)  首をすくめながらも、雷はその姿を探し求める。  いた。  一台、二台……五台、六台……後になり先になりしながら、今しも斜面のふもとに到達しかけている大小の戦闘車輛を認めて、雷は反射的にハンドルを切り返し、アクセルを蹴った。  さらに、一閃、二閃、雷たちの乗る地上車を取り囲むように土煙が上がる。  その爆発の激しさから、小口径の力線銃による射撃ではないことが分る。  恐らく、車載砲によって狙い撃ちをはじめたのであろう。  そんな大口径の力線砲をまともに食らえば、雷たちは車ごと消滅してしまう。  しかし、敵はまだこの場で二人を吹き飛ばすつもりはないらしい。  その射線は微妙に彼等の地上車をかすめている。  やはり敵の狙いは生けどりにあるのだろう。  雷は重いハンドルを渾身《こんしん》の力で左に回し、猛然と地上車を突進させる。  そのまま、河床へと続く階段状の不安定な斜面を駆け降りはじめる。  車体は腹で土砂をけずりながらずり落ち、また岩に突きあたっては跳ね上げられて空中に飛びだす。  今にもコントロールを失って前のめりに転げ落ちてしまいそうな走行だが、だからといってアクセルをゆるめるわけにはいかない。  敵がその土手を登りきって姿を現わす前に、なんとかして黄河の河岸まで辿《たど》りつかなくてはならない。  雷は焦った。  焦れば焦るほど、車体はなおも激しく暴れだす。  しかし、後部座席に欲張って積み込んだ武器や食料が、幸いにもバラストの役割を果たし、地上車は危うく転覆を免れて平坦な河床部へ滑り降りた。  その時、轟音とともに、車の前方に火柱が上がった。  息をつく間もなく振りあおぐと、すでに数台の戦闘車輛が土手の頂きに姿を見せ、ためらう様子もなく凹凸《おうとつ》の激しいその勾配《こうばい》を急降下しようとする態勢だ。  先頭に立っている車輛は、雷たちの盗み出したものと同じ小型車だが、大口径砲を一門、それに力線銃を構えた武装兵十名近くを鈴なりに積み込んでいる。  と見る間に、その敵の放った一弾が、雷たちの地上車をゆさぶった。  至近弾だ。  敵もついに、本気で二人を追いつめにかかったようだ。  雷は再び死にもの狂いで地上車を発進させた。 「雷……雷……黄河だ、川さえ越えれば……」  ようやく、わずかながら気力を回復したらしいヴィダルが、苦し気に声をふりしぼる。  しかし、河床の中央を鈍く光りながら流れる泥水の帯に近づくにつれ、雷の心に絶望的な迷いが生じはじめていた。 (果たして、この川を、車で渡り切れるのか……)  確かに、前方をゆるくうねりながら流れる泥水は、幅も細く、しかも力のないものに思えた。  かつての大河、黄河の姿を知っている者が見れば、その余りの変貌《へんぼう》に唖然《あぜん》となるに違いない。  それはただの、にごりきった小川にしか見えない。  にもかかわらず、その川の周囲には無数の水たまりや沼が点在しており、さらに川自体の深さも全く見当がつかないのだ。  このまま、その地帯に突っ込んで、泥や水に車輪をとられてしまえば、もはや脱出は不可能になる。  それを考えれば、川の上流か下流へ車首をめぐらし、川沿いにしばらく逃げて確実な渡河地点を探すのが最良の道と思われた。  しかし——  一瞬、首をねじ曲げて背後をうかがった雷は、すでに自分たちが敵の包囲陣にがっちりとくわえこまれかけていることを知った。  敵の戦闘車輛群は、早くも土手を駆け降り、今や平坦な河床部で大きく左右に展開しつつある。  そして雷とヴィダルが乗る地上車を押し包むように距離をつめながら、砲撃を開始したのだ。  その布陣と弾幕によって、もはや変針は不可能だった。  雷に許されている逃走路は、直進以外にない。  つまり敵は、雷たちをそのまま川べりに追いつめようとしているのだ。 (……ということは……)雷は、混乱しきった頭の隅で、かろうじて考えた。(……奴等は、俺たちがこの車では渡河できない、と思っているんだ。奴等はそのことを知っているんだ!)  そう気づいた時には、すでに遅く、地上車は全速力のまま、最初の大きな沼状の水たまりに突っ込んでいた。  まるで樹脂のように粘度の高い泥が、四つの車輪にからみつき、地上車の速度がたちまち落ちてくる。  そればかりか、車体もずぶずぶとその沼に沈みこむ。  雷は慌ててアクセルをあおる。  その時、すぐ背後まで迫ってきた敵の戦闘車輛から、小口径力線銃の一斉射撃が、地上車めがけて襲いかかってきた。  ジュ! ジュワ!  バリバリバリバリ……  ジュジュジュ!  たちまち地上車は、物が灼《や》けこげるすさまじい熱気と臭い、そして白煙に包まれる。  後部座席に満載していた食料の大半が、敵弾によって吹きとばされたのだ。  しかし、それが思わぬ防弾効果を発揮して、雷とヴィダルはなんとか生きのびている。  しかも地上車のエンジンはまだ健在だ。  いったんは傾いたまま泥の中に沈みかけた車輪も、ようやく足がかりになる底の岩に届いたらしく、地上車の前進が、またはじまっている。  雷はしゃにむにアクセルを踏みつけ、ただ前へ前へと地上車を突進させた。  今の一斉射撃によって、恐怖も何もかもが粉砕された感じだ。  もはや生死を思いわずらう余裕すらない。  と、地上車はようやくその泥沼を抜けた。  そして次の瞬間、もう目の前には、鈍くうねる黄河の流れが迫っていた。  雷はちらりと背後に目をやる。  戦闘車輛群もその湿地帯に突っ込んで、やや追撃の速度をそがれている。  いちかばちかだ。  雷はすっかり覚悟を固め、比較的水深が浅そうに見える、流れのくびれ目に車首を向けた。 「行くぞ! 行くぞーっ!」  雷は誰《だれ》に聞かせるでもなく絶叫した。  と同時に、車体は川べりを蹴った。  水しぶき——というより、汚物そのままの悪臭を放つ泥が、雷の視界を覆いつくす。  地上車はついに黄河の本流に跳び込んだのだ。  はね散る泥水で、何も見えない。  かといって、片腕の雷は、自分の顔を拭《ぬぐ》うこともできない。  ただ一本の右腕でハンドルにしがみつき、アクセルを踏み続ける。  しかし……しかし……  地上車は、泥流にとり巻かれながらも、まだあがくように前進を続けている。  車輪はともかくも川底の砂利をかいている。  雷の勘が一応は正しかったのだ。  地上車は流れに半ば沈みかけているが、決して渡り切れない深さではない。  すでに地上車は流れの中央に達しており、もどかしい速度ながらも、着実に対岸へ近づいている。  その時、また地上車めがけて、敵の火線が殺到してきた。  川べりに追いつめれば停止すると思っていた雷たちの地上車が、そのまま流れに跳び込み、しかも前進し続けている。  これは彼らにとって完全な誤算だったのであろう。  彼等は今度こそ、必殺の照準で、二人を仕とめようとかかってきたのだ。 「ヴィダル! 頭を下げろ、シートの下にもぐり込むんだ!」  雷は叫び、自分も思いきり身を縮めて襲いかかる力線を避ける。  しかし—— 「うわっ!」  雷が呻いた。  まるで灼けた鉄棒をねじ込まれでもしたように、左肩に激痛が走った。  その直後に、後部座席の荷物が爆発したように飛び散る。  ぎざぎざの破片が、雷とヴィダルに、散弾のように降り注いでくる。  そして、それが、身体のいたるところに無慈悲にも食い込んでくる。 「や、やられた!」  雷がたまらず叫ぶ。そしてハンドルから手を離して後にのけぞった。 「うぐ……ぐぐぐ……」  血まみれのヴィダルも声にならない唸り声を上げる。  しかしそれでも、最後の力をかきたてたのか、上体を座席から起こし、雷の手を離れてしまったハンドルを必死で押さえ込む。 「た、の、む……ヴィダル……そのままだ、直進だ……」  激痛に身をよじりながら、雷はアクセルから足を離さない。  そしてハンドルはヴィダルがようやくのことで立て直す。  と、ついに、地上車は黄河の泥流を渡り切った。  四つの車輪で水をかき分けながら、対岸に躍り出た地上車は、乾いた地表を踏んで、急に活力をとりもどした。  熱しきったボンネットから湯気を吹き上げながら、一直線に突っ走りはじめたのだ。 「敵は?……」  ハンドルをかかえこんでいるヴィダルが、目も開けられずに雷に訊《き》く。 「おお……奴等、深みにはまっている……いいぞ、もしかしたら……逃げきれるかも……」  振り向いた雷が叫び返す。  敵の戦闘車輛は、大型装甲車三台に、軽車輛が五台だ。  そのうち、大型のものは三台とも、自重のために泥流の中へ沈みこんであがいている。  軽車輛も、二台は、渡河地点の選択を誤ったのであろう、車体の半分以上を完全に水没させてしまっている。  かろうじて、流れを乗り切りそうなものは三台の小型車だけだ。  その三台に、他の水没した車から、重武装の兵士たちが次々に乗り移ろうとしている。  それが彼等の混乱をさらに大きくしているようだ。  雷たちに対する力線銃の攻撃も、今は一時的にやんでいる。 「……北だ……そして西寄りに進むんだ……≪月の神殿≫は、もうすぐだ……」  ヴィダルが呻くように言う。  だが、ついに、無理に無理を重ねた地上車のエンジンが、ガラガラという異音を発しはじめた。  エンジン・ルームからは、きな臭い煙も洩《も》れだす。  しかし、ともかくも、行けるところまで、この車を走らせるしかなかった。  悲惨な二人三脚で操られる地上車は、その運転者同様満身|創痍《そうい》の状態ながら、それでもどうにか車輪を回し続けている。 「ヴィダル! ハンドルを離すなよ、方角はそのままだ。いいか、俺が合図するまで、そのままだ!」  顔を突っ伏したまま、ハンドルを握り続けているヴィダルの耳元でそう叫ぶと、雷は再び顔を背後に振り向けた。  どうか、追撃をあきらめてくれ、と祈りながら、敵影を探す。  しかし、彼等はなおも執拗《しつよう》だ。  渡河の混乱で、相当に距離は開いているが、どうやら黄河を渡り切った三台の軽戦闘車輛が、兵隊を満載して追ってくる。  彼等の執念深さに、一瞬、雷の目の前は暗くなった。  だが、考えてみれば、それも当然であろう。  なにしろ雷とヴィダルは、狂気の軍団、猛虎中隊指揮官の命を奪ったのだ。  彼等とて、相手の姿を認めながら、みすみす追撃を中断する気にはなれないだろう。  雷はくじけそうになる自分をしかりつけながら、わずかに破壊を免がれた食料や飲料の缶を後部座席から見つけて、それを歯で食い破った。  何本かの前歯が砕けるが、そんなことにかまってはいられない。  開いた缶詰をヴィダルにも渡し、交互にハンドルを握りながら、それらをむさぼった。  そしてふと頭を上げると、前方の地平線近くに、ぼんやりとした雲の連なりが見えている。 「おい、ヴィダル。目を開けて、あれを見てくれ」  半信半疑のまま、雷はさらに目をこらした。 「……山だぞ、山脈だ……ヴィダル、あれが目的地なのか!」  雷は、血まみれのヴィダルをゆさぶって、そう訊いた。  ヴィダルも、苦しそうに肩で息をつきながら、やっとのことで片目を開ける。 「あ、ああ、あ……太行《タイハン》山脈だ……まちがいない。見覚えがある……確かに、確かに……」  ヴィダルが顔中を歪《ゆが》めてうなずいた。  すでに黄河を越えてかなりの距離を走破しているはずだ。  エンジンの不調で敵との距離は徐々に縮まりつつあるが、重装の歩兵を鈴なりに積み込んでいる敵の追跡車も、その重さで相当に速度を制限されているらしい。  このまま、あの山麓《さんろく》まで逃げ切れれば、山中の複雑な地形にまぎれて姿を隠しおおせることもできないではない。  それだけが、とりあえず、今の雷の希望だった。  と、その途端である。  突然、ボンネットのすき間から、すさまじい勢いで熱い蒸気と煙が吹き出した。  と同時に、金属部品のへし折れる異音が、エンジン・ルームから響きわたった。  ガクンと行足がとまる。 「なんてことだ!」  雷はただ茫然《ぼうぜん》と、ゆるゆると停止する地上車のハンドルをにらみつけた。  ついに、雷とヴィダル、二人の幸運も底をついたらしい。  思えば、ここまで逃げられたこと自体が奇跡だった。  そして、奇跡とは、そうそう長続きするものではないのだ。  地上車は、ガク、ガク、と二度ほど身震いして、今や完全に停止した。  雷は、急速に気力がなえてゆくのを感じながら、ゆっくりと背後の荒原を見晴らした。  そこにはなおも猛然と土煙をかきたて、そして見る見る接近してくる三つの凶々《まがまが》しい影があった。  そのひとつひとつに、文字通りの地獄の使者が、充分すぎるほどの人数、つめこまれているのだ。 「雷……雷………だめか、だめだったか……」  雷のひざに、がくりとヴィダルが首を落とした。  雷は再び、視線を前方に移した。  そこには頂上に厚い雲をいただく、険しい山並みが青くかすんで見える。 (あそこに……あのどこかに≪月の神殿≫がある……いや、あったのだ)  雷は自嘲的《じちようてき》に唇を歪め、からからに乾いた口腔《こうこう》から、なんとか一滴のつばをしぼり出してそれを車外に吐いた。 (終った……終ったんだ……)  雷は、疲労の余りすでに感覚のなくなった右手で、腰のベルトを探った。  そしてそこから、この旅の相棒を掴《つか》み出す。  五連発のその小型拳銃には、まだ三発の銃弾が残っていた。 (これでいい……一発をやつらに、そして残りは、俺とヴィダルのために使おう……)  雷はさらに間近かに迫った戦闘車輛を片目でにらみながら、そっと拳銃の撃鉄を起こした。  その時である。  雷の目の隅に見えていた山脈の中腹で、なにかがピカリと光った。  それは、光と白い煙の糸を引いて、まっすぐに、こちらに向かって飛んでくる。 (…………)  わけも分らず、雷は、空を一直線に横切るその軌跡を目で追った。  と、それは素晴しいスピードで雷の頭上を行き過ぎたかと思うと、突然、飛翔の方角を変え、急降下しはじめたではないか。  軍団の三台の車輛が、慌てふためいて右往左往しているのが分った。  百八十度反転して後退する車もある。  しかし次の瞬間、白い煙を曳《ひ》くその物体は、逃げまどう三台の、ちょうど中間付近に落下した。  そして、爆発する。  白熱した光の球が急速に膨張し、そしてしぼんだ。  それをもろに目撃してしまった雷の目は、しばらくの間使いものにならなくなる。  しかし、失明状態から解けた時、雷はそこに黒こげになった三台の戦闘車輛の残骸《ざんがい》を発見して我が目を疑った。  かろうじて爆風から逃れた一台が、一目散に遠去かってゆく姿もある。 (……た、助かった……)  薄れかかる意識の片隅で、雷はそう思った。  いや、そう信じようとした。  今の彼は、もうそれ以上のことを考えたくなかったのだ。  彼の手から、小型拳銃がずるりと床に落ちた。  彼を救ったものの正体が何であれ、ともかくもここは≪月の神殿≫を目前にした土地に違いなかった。  そして、敵めがけて襲いかかった空飛ぶ武器は、まさに、神殿の土地とされる山脈の一角から放たれたものなのだ。  だが、その関連をつきつめる気力も雷には残っていなかった。  雷は自分のひざに頭をのせて横たわるヴィダルを見下ろした。  その座席から下は、全くの血だまりだ。  かろうじて呼吸だけはしているものの、ヴィダルがすでに九分九厘死に捉われているのは明らかだった。  そして雷自身もまた、ざっくりと割られた肩口から、とり返しのつかないほどの血を噴出させていた。 (……ああ……)雷は地上車のシートに身を沈め、深い息を吐いた。(……ああ……)  痛みや疲れも、もはや雷にとって無縁なものとなりつつあった。  彼は、全ての意識が急速に去ってゆくのを感じながらそれに身をまかせ、ただぼんやりと顔を前方に向けていた。  その時、雷はふと、どこかから奇妙な音が近づいてくるのを聞きつけたように思って、閉じかけた目蓋を持ちあげた。  すると、確かに、何かがやってくる。  それは見慣れない格好の車だ。  そしてその風防の後には、白い衣服をまとった人影が見える。 (……まさか……いや、ひょっとすると、あれが死神の使いというやつかもしれん……)  それが、雷の最後の意識だった。  彼はそれだけを考え終えると、運命に従う決心をして、そっと目を閉じた。  9 復讐《ふくしゆう》の神殿  …………  …………  ぽかりと目が開いた。  すると、むき出しの岩の天井がそこに見えた。 (どこだ……ここは、地獄か?……)  雷が思ったのは、まずそれだった。  雷は身体を動かそうとする。  しかし、それは果たせない。わずかに首をめぐらすことができるだけだ。  すると、視野の片隅に、同じくあおむけに横たわる人影が見えた。  雷は、ともすればぼけそうになる焦点をなんとか保ちながら、その人間に目をこらした。 (ヴィダルだ……)  雷はようやくそれを認めた。  変わり果てた容貌《ようぼう》ながら、それは確かにヴィダルのようだ。  死んではいない。その証拠に、胸が上下しているのがここからでも分る。  その姿を見つめるうちに、ようやく雷の頭の中にも、現実的な感覚がよみがえってくる。  雷は疲れた視線を、また天井にもどして、幾度もまばたきした。 (……俺は、生きているのか?……誰かに救けられたのか……)  部屋《へや》には、一個の裸電球がぶらさがっている。  それ以外にはベッドしかない。恐ろしく無愛想な造りの一室だ。  鼻をひくつかせると、強烈な血の臭いがあたりに充満している。  それは雷とヴィダルの二人が流したものに違いなかった。 (……ここは、どこだ?……)  雷は再び、首をわずかずつ動かして、周囲の様子をうかがった。  ベッドの右手には小さな鉄製のドアがある。  雷はぼんやりとそのドアの把手《とつて》を眺めた。  そこを開けて入ってくる人間に、いったいどんなあいさつをしたらいいのか、それを雷は考えはじめたのだ。  と、まるで、そんな雷の考えが通じたかのように、ガチャガチャとドアが鳴りだしたではないか。 (…………!)  雷は思わず緊張し、しかしそこに貼《は》りついた視線をはずすこともできずに見つめ続けた。  そして、ドアがバタンと開いた。  最初に姿を見せたのは、貧弱な体格の白衣を着た男だ。  年齢不詳の顔立ちだが、頭には白いものも混じっている。  その男の視線と雷の視線が、からみあった。  男が口をぽかんと開いた。  明らかに驚愕《きようがく》の表情だ。  そして男はくるりと振り向き、ドアの向こうに続いている通路に向かって叫びだした。 「Kara! Kara!……」  それに応《こた》えて、大急ぎで駈《か》けてくる足音が聞こえてくる。  そしてもうひとりの人間が、小男に続いて戸口に現われた。  それは女だった。  かなりの年齢らしく、顔に刻まれたシワは深い。  長い髪を無造作に頭の後で束ねている。  男と比べて、彼女の方は大変な長身だ。  その背格好は、ヴィダルにどこか似通っている。 (あっ!)雷は喉《のど》の奥で小さく叫んだ。(この体格……彼女もやはり、ヴィダルと同じく、天界の生まれにちがいない)  さらに見ると、背の低い男の方も、細長い手足は、地球で育った人間とは明らかな違いを感じさせた。  その男が、白衣のポケットから小さな器具をとり出しながら近づいてくる。  その機械には確かに見覚えがあった。  あのヴィダルが常に喉元にゆわえつけていた翻訳器にちがいない。  男は(心配するな)という風にうなずきかけながら、それを雷の首にのせ、そして電線でつながれている一端を耳に押し込んだ。  そしてスイッチを入れる。 「どう? わたしたちの言葉が分る?」  女が異国の言葉(それはヴィダルの喋《しやべ》っていたものと同じらしい)でそう訊いた。  彼女のその声は、雷の片方の耳に差し込まれた器具から、雷たちの言葉となって聞こえてくる。  雷はうなずいた。 「その機械は翻訳器というものよ。そう、このヴィダルも持っていたでしょう。あなたも、使い方は知っているわね?」  女が再び言った。 「ええ……分ります……俺とヴィダルは……いつも、こいつを使って話していた……」  雷はゆっくりそう答た。  するとその声は、異国の言葉となって、喉元の機械から流れだす。 「しかし、大変な生命力だ。二人とも死体同然のぼろぼろの身体じゃった。実際、よく持ち直したもんじゃ。この分だと、ヴィダルの方も、なんとか蘇生《そせい》させられるかもしれん」  女のかたわらに立った小男がそう言った。  雷は呻くように口を開き、そして言った。 「あ、あなた方は、ヴィダルを知っているんですね?………ということは……ここは、ここは……≪月の神殿≫……」  雷は思わず上半身を起こそうとして、すさまじい痛みを背中全体に感じ、悲鳴を上げる。 「こら、こら、まだ身体を動かしちゃいかん」  小男が片手で雷を制した。  その男の頭ごしに、長身の女がのぞきこんできた。 「≪月の神殿≫の名を知っているのね……おまえは、いったい誰なの? このヴィダルの従者? 何の目的で、ヴィダルとここまで旅をしてきたの?」  女の声が、訊問《じんもん》の調子を帯びた。 「ち、ちがう! 俺は、ヴィダルの従者なんかじゃない。彼と俺は仲間だった。そう、友達だ。ふ、ふたりして……神殿へ……神殿へ行こうと……」  次第に激しくなる全身の苦痛に耐えかねて、雷は声を震わせた。 「ええ、ええ、いいわ。今は喋らなくてもいいわ」  苦しそうな雷を気づかって、女が口調を柔らげた。 「でも、ひとつだけ、教えておきましょう。あなたはどうやら、その不自由な身体で、ヴィダルを助けてきた人間のようですからね。いいでしょう、教えましょう。あなたたちは、着いたのよ。あなたたちの目指した≪月の神殿≫とは、まちがいなく、ここのことよ。ずいぶん苦労したようね。でも、もう心配はいらない……」  女はひっそりと微笑し、片手を雷の額に置いた。 「ああ……やはり……」  雷は目を閉じ、そして身体から力を抜いた。それからふと眉《まゆ》をひそめ、また言った。 「……しかし、本当にここは安全なのですか? つまり、俺たちを追っていたのは超軍団の兵士たちだったんです。奴等《やつら》が、態勢を立て直して逆襲してくるとなると……」 「それなら大丈夫じゃよ、若いの」  男が喉の奥で笑いながら言った。 「ここは≪月の神殿≫の領地じゃよ、この意味が分るかね? おまえさんの言う超軍団、核戦師団の生き残りどもは絶対にここへ攻め入るようなマネはせん。というのも、彼等にとって我々は、あくまでも、天界の人間なのじゃ。彼等は、天界を怖れ、そして敬まっておる。だから手出しはせんのじゃ。もっとも過去に、ヨーロッパにある同じような神殿のひとつを占領しようとした愚かな師団があったそうじゃ。しかし、その師団は、天帝の怒りに触れて、消滅させられてしまったという。この大陸にいる核戦師団もそのことはよく心得ておる」  男は言って、また奇妙な笑い声を洩らした。 「それにじゃ。我々は彼等の教師でもあるのじゃ。師団の末裔《まつえい》たる彼等は、戦闘となれば蛮勇をふるうが、例えば原子力機関の原理ひとつにしても、まるで理解はしておらん。そんなこんなを我々は時に教えてやり、そればかりか、壊れた兵器や機械の修理を指導してやることもある。つまり、彼等にとって、我々はなくてはならん存在でもあるんだ。分るかな、若いの。だから我々は彼等に、いろいろと注文もつけておる。そのひとつは、黄河から北では絶対に暴れてくれるな、というものじゃ。その言いつけにそむく奴には、いつもあのような仕置きをしてやるのじゃ」  小男はこともなげにそう言って、くっくっと笑い続けた。  その声を聞きながら、雷はまた意識を失っていった。  …………  …………  二度目に雷が目覚めた時、すでにかたわらのヴィダルも昏睡《こんすい》状態を脱していた。どうやら、快方に向かいかけている様子だ。  彼は土気色の顔ながらも、その長身の女が与える流動食をすすりこみ、ぽつりぽつりと旅の様子などを話している。 「……ヴィダル……おい、助かったのか……」  雷はこみ上げるうれしさに顔をほころばせ、声をかけた。 「まあ、やっと目が覚めたわね」  女はヴィダルのかたわらを離れ、雷のベッドに近づいてきた。  ちょうど、鉄の扉をくぐって、あの小男も部屋に入ってくる。 「おお、これで二人とも正気づいたというわけか。ライ、とか言ったな。あんたは三日三晩、そこで眠り続けていたんじゃぞ」  男が言う。 「雷……雷……きみのおかげだ。まったく、きみのおかげで助かった……」  となりのベッドから、ヴィダルも呼びかけてくる。 「よかった……よかった……」  雷がつぶやくように、そう繰り返す。 「……そう……わたしたちは生きている……確かに……ああ、しかし……」  ヴィダルは言いながら、毛布の下から両手を出し、雷にむかって差し出した。しかし、その表情はいかにも悲痛だ。  雷はそれをいぶかしんだ。  そして、自分も片腕を、彼にのべようとして身じろぎした。  だが、雷の身体は動かない。  彼の首から下は、鉛のように重く、感覚がないのだ。  わずかに、背中から|尾※骨《びていこつ》にかけて、まるで自分が死体にでもなっているのかと思えるほどの湿った冷たさが感じられるばかりだ。 「あうっ……」  雷は呻いた。そして、目顔でヴィダルに問いかけた。 「……雷……わたしたちは、このカラとウラジミルの処置のおかげで、奇跡的に生命だけはとりとめた……だが……見てくれ! わたしは、この通りだ」  ヴィダルは叫ぶと、突然、両手で身体を覆っている毛布を払いのけた。 「そ、そんな……」  雪は目をむいた。そして絶句したなり、顔をひきつらせた。  ベッドから上半身をのぞかせていた時のヴィダルは、どう見てもまともな人間だった。  しかし、その毛布の下……。  彼の半身は、胴回りから上を残して、消えていた。  そしてその切り口から、生体補助装置と思われる各種のパイプや電線が、異様に突き出している。 「雷……これでも、わたしたちにできる精一杯の処置だったのよ。ヴィダルも、そしてあなたも、わたしたちがこの研究所まで運び込んだ時には、すでに半分死体になっていたわ。ヴィダルの片足はねじ切れかかっていたし、それに彼は、下腹部にも致命的な裂傷を負っていたの。わたしたちは、彼を助けるために、その破壊された組織を切除しなくてはならなかった……」  カラと呼ばれた白衣の女が、苦渋に満ちた声で、そう告げた。 「……そうか……ああ……」  雷はあえぎながら、ようやく口をひらいた。 「それで……俺は……この俺の身体の方は、いったいどうなってるんだ? 教えてくれ……この俺は、どうなっちまったんだ……」  うつろな目つきで、雷が訊《たず》ねる。 「あなたは……そう、あなたには、まだ二本の足も、そして右腕も残ってはいるわ」  カラは考え考え、説明をはじめた。 「……でも、あなたは、左の肩口を熱線で貫かれていた。それと、何かの爆発で、背中をめちゃくちゃにされていたのよ。わたしたちは、努力したわ。脊髄に食い込んだ金属片を、何時間もかけてひとつひとつ取り除いていった……でも、それによって切断された組織を蘇生させるには、余りにも遅すぎた……」  カラが、首をたれた。 「それは……つまり、どういうことなんだ!?」  雷はしわがれ声を張り上げた。 「あなたの身体は、恐らくこの先も、ずっと麻痺《まひ》したまま……そのまま、あなたは生き続けるしかない……」  カラが言った。 「俺は、俺は、もう二度とこのベッドから起き上がれないというわけか……」 「…………」  カラは口をつぐんだ。  荒野の兵団との闘いの最中、彼は自分でも嫌になるほど、幾度も幾度も死を覚悟した。  いや、その前から、彼が居留地を半ば追われるようにして逃げだした時から、彼と死神は、つねに背中合わせで歩いてきた。  だから雷は、今自分に突きつけられたこの運命も、そんな死の一形態として、なんとか胸のうちに呑《の》み込もうと努めた。  しかし、それにしても、余りにもむごい、ある意味では死よりもはるかに過酷な現実だった。  雷は自分がこのまま発狂してしまうのではないかとさえ思った。  しかし、その絶望が余りにも深過ぎたために、かえって雷の心は澄み切っていくようだった。 「……そうなんだ……俺は奴等に、あの天使どもに妻を奪われた。それに抵抗しようとして、左腕を切り落とされた。……俺は居留地にいたたまれなくなって、旅に出たんだ。そして、偶然、ヴィダルと出会った……」  雷はひとり言のように話しはじめた。  カラと、そして小男のウラジミルもそれに聞き入る。 「……天帝《ムーン・ロード》、それに天使《ムーン・エンジエル》ども……いや、あの天界のすべてが憎い……俺は、この憎悪の百分の一でも千分の一でもいいから、奴等にそれを届かせたい、と思っていた。だから、ヴィダルとともに、ここまでやってきた……この神殿にあるという、大望遠鏡で、あの天界をにらみつけてやりたい、ただそれだけが俺の望みだ……」  雷は宙を見つめ、歯を食いしばった。 「……憎いでしょうね、分るわ、雷……」  白衣のカラが、雷の顔をのぞきこみながらそう言った。 「ああ、憎い……しかし、それだけじゃない……俺が、天界の都を間近かにのぞきこんでみたいと思った理由は、もうひとつあるんだ……」雷が続けた。 「それは?」カラが訊く。 「……俺は、小美の本当の気持ちが知りたかった。そう、小美というのは、俺の妻だった女の名だ……俺は小美のことが知りたかった……彼女が、俺たち居留民のためだけに仕方なく天使の命令にしたがったのか、それとも、心の奥では、天界の楽園へ召されたことを実は喜んでいたのか……」  雷は片頬《かたほお》を歪めて、寂し気に笑った。 「……天界の様子を、あの小美が暮らしている楽園の様子を一目見れば、そのことが分るような、そんな気がした……だから、俺は、こうまでしてやってきたんだ……」 「ええ、ええ……あなたのその望みは果たされるわ。確かに、ここ≪月の神殿≫には、月面の都市の、道路や建物、それに乗り物の姿まで見分けられるほどの望遠装置があるんですもの。いいわ、雷……あなたの望みは、月が神殿の上に昇りさえすれば、いつでもかなえられるわ」  カラが言った。  それを聞いて、雷は、ほっとため息を洩らした。 「……いや、本当のことを言えば、俺は、小美の気持ちがどちらであったとしてもいい……俺は小美が、あの都で、毎日を喜びのうちに過ごしていてくれるなら、それでいい……俺は、それを確かめてみたいんだ……」 「優しいひとね、雷……」  カラはそっと手をのばすと、雷の髪の毛に触れた。 「だが、若いの……我々もまた、あんた以上に、あの天界を呪《のろ》っている人間なのじゃ」  それまで黙って、やりとりを聞いていたウラジミルが、急にきびしい口調でそう言った。 「ヴィダルから聞いておろう、我々がなぜ、このような場所に放置されたか、その理由を!?」  ウラジミルはこぶしを握り、ヴィダルと雷を交互ににらみながら叫ぶ。 「我々とて、もとはと言えば、あの月面で、下界を踏みつけにしながら暮らしていた人間じゃ。そのことは認める。だが、我々は少なくとも、一片の良心だけは、まだ心の中に残していたのじゃぞ。そうだ、我々は警告した。このまま、無慈悲な搾取を続ければ、遠からぬ将来、地球は、回復不能な原始状態にまで退行し、やがては荒廃してしまうであろうことを……だから我々は主張した。少なくとも、LN素子だけは地球人に与え、彼等自身の手でエネルギー・チューブ、つまり力筒を製造させるべきだ、と言ったのだ。そしてその上で、正常な交易関係を、地球と月世界の間で開始すべきだ、と……」 「そう……でも、天帝たちは、そんな主張を、たわ言としか受けとらなかったわ。彼等は下界民を、動物並みの存在としか考えようとしなかった。その未来がどうなろうと、知ったことではないと思っているのよ。彼等の頭には、ただ現在の富と享楽しかない……それで、わたしたちは追い払われてしまった」  カラが言葉を続ける。 「それほど下界民のことが気になるなら、自分たちも下界へ降りればよかろう、と彼等は言った。そして、我々は、この≪月の神殿≫と名づけられた研究所に追放されてしまった……」 「だが、我々に何ができる? 我々は、サイバネティック・オーガニズムの専門家にしか過ぎん。LN素子によるエネルギー変換に関する原理は知っていても、そのシステムを作り上げることなど、とてもできん。そのためには、どうしても素子の見本、サンプルが必要だ。それと蓄積回路の図面が……だが、それは、天帝とその側近グループが独占している。しかも、天帝たちは、天使と名乗る暴力機構によって守られている。奴等が身につけている戦闘服《コンバツト・スーツ》、あの黒い鎧《アーマー》は、わしと、このカラが共同で開発したものだというのに、まったく、なんてことだ。その鎧をつけた無頼漢どもに、我々が逆にひったてられ、この下界まで引きずり下ろされねばならんとは……おっと、ヴィダル、あんたも昔は、その仲間だったんじゃ。まあ、悪く思わんでくれ」  ウラジミルは、ヴィダルの悲し気な目を見て頭をかいた。 「いいえ、ウラジミル。あなたの言う通りなのですから仕方がない。あなた方を、ここへ連れてきたのは、他《ほか》ならぬ、このわたしなのですから」  ヴィダルは率直に言った。 「……ですが、今や、このわたしまで地球へ≪送還≫されてしまった……もはや、天帝の堕落と狂気をいさめる人間はいない……」  ヴィダルがくやしそうに天井をにらむ。 「ちょっと待ってくれ、ヴィダル………」雷が驚いて口をはさんだ。「あの天使どものまとっている鎧《アーマー》をつくったのは、この人たちなのか? それは、本当か?」 「ああ、その通りさ、若いの。あれはもともと、宇宙空間での作業補助服《ワーク・スーツ》から発展したものなんじゃ。身体の上に、もうひとつの筋肉組織をかぶせるような考え方でつくられた。だから、我々サイボーグ技術の専門家が、動員されたというわけじゃ。まあ、知らないとは思うが、あの月面では、物を大地に引きつける力がこの地球上の六分の一ほどしかない。それで、その低重力に馴《な》れてしまうと、今度は地球へもどってきても、すぐには身体を動かせないほど筋肉が弱ってしまうのだ。転倒しただけで足の骨を折りかねん。そこで開発されたのが、あの鎧……筋肉保護服なんじゃよ。天使が動き回ると、鎧がジージーとモーター音をたてるのに気づいたことはないかね? そうなんだ、鎧の各所には弱った筋肉を補助するためのモーターが組み込まれており、身体の動きに応じて、その力を約二十倍にまで増幅する。あの装置がなければ、月人は一瞬たりとも地球の大重力下で活動することはできんのだ」 「知らなかった……あの鎧が、そんな役割のものだとは」雷がつぶやく。「ということは、鎧を脱いだ天使《エンジエル》たちは、この地上ではまるで赤ん坊ほども無力だということだ……そうでしょう?」 「その通りだ、そんな奴等に、地球人は牛耳られておるのだよ」ウラジミルと名乗る初老の小男はうっそりと笑った。 「……奴等を引きずり降ろしてやりたい……この地球へ、裸のまま引きずり降ろしてやりたい……」  不意に、激しい怒りに駆られたのか、カラが呻くようにつぶやいた。 「……そうでもしないことには、破滅は確実にやってくるわ。あの堕落しきった天帝を、そして天使たちを、この大重力下で泣きわめかせてやりたい……そうでもしなけりゃ、奴等の目は決して醒《さ》めない……ああ、そうでもしなけりゃ……」  握りしめたカラのこぶしが、ぶるぶると震えている。 「カラ……わたしの願いも同じです!」  二本の腕だけで、上半身を支えようとしながら、ヴィダルが絶望的な調子で叫んだ。 「だが……だが……わたしの身体はこの通りだ! どうすればいい!? いったい、どうすればいいんだ!?」  ヴィダルの声を聞くうちに、雷の頭にも熱い血が上ってきた。 「ヴィダル! 俺はくやしい。そして、奴等が憎い。俺の身体で満足に動くのは、この口しかないが、もし誰かが、この俺の身体を天界まで投げ上げてくれたら、この口と歯で、その天帝とか呼ばれている化物に噛みつき、食いちぎってやる。くそっ!」  雷はわめいた。  彼にできることは、それしかなかった。  雷はむやみに、唯一、自分の自由になる筋肉を使って首を左右に打ち振り、なおもわめき続けた。 「頼む! 俺を、天界船の船倉にでも放り込んでくれ。そうすれば俺は、歯と、そうだ、それに目玉を使ってでも自力で這《は》いずり、小美を見つけだし、そしてあいつらに復讐してやる。あらゆるものを噛みちぎってみせる。俺をこんな運命に突き落とした奴等、そればかりか、下界全部を破滅させようとしている奴等……俺は、俺は……」  雷の顔面は、汗とも涙ともつかない液体で光っている。  そんな雷の額に、カラがそっと手を置いた。 「雷……あなたの身体は、まだ回復しきっていないわ。過度に興奮するのは危険よ。分るでしょう?」  カラが言った。 「回復だって!?」雷がだだっ子のように言い返した。「こんな身体、こんな身体……俺にとって、何の役に立つ!? くそっ! 全部切りとって、すててしまいたいくらいだ!」 「そうか、若いの。それなら、道がないこともないぞ!」  突然、カラの背後で、ウラジミルが太い声を出す。  カラも、はっとしたように振り返った。 「そうだろう、カラ。我々は、自分で言うのもはずかしいが、この世界では最高のサイバネティック・オーガニズム、即《すなわ》ちサイボーグ医学の技術を身につけたチームだ。違うかね? 我々は、LN素子をつくることはできんが、天使の鎧《アーマー》つまり、別な筋肉組織をつくりあげることはできる。その技術と知識は持っておる」  ウラジミルが言った。 「ええ、ええ、そのことは、わたしも考えたわ……」  眉のあたりを指でおさえながらカラは応える。 「でも……それは、この二人をまるで違う生き物につくり変えてしまうことよ。余りにも非人間的な行為だわ」 「それが何だ、え? カラ、この二人を、このまま生かしておく方が、わしは、もっと非人間的な行為じゃと思うのじゃが。違うかね?」  ウラジミルが、ヴィダルと雷を交互に見ながら、ずばりと言い放った。 「ウラジミル……カラ……何か、お考えがあるんですね? 聞かせてください、お願いです」  ヴィダルが、手でばたばたとベッドを打ちながら言った。 「ヴィダルの言う通りだ。俺たちにとって、こんな姿のままで死を待つ以上につらいことはない。どんなことをされても、文句は言わない。だから、何とか、俺たちを助けてくれ!」  雷も叫んだ。 「そうなんです。わたしと雷にとって、もうこれ以上悪い状態などありっこない。どんな身体に改造されようと、かまわない。わたしたちにチャンスを与えてください! 復讐のためのチャンスを!」  どうやらウラジミルたちの意図を悟ったらしいヴィダルも必死でそう訴える。 「でも……でも……ウラジミル、あなたの考えを実現するためには、この研究所にある資材だけでは足りないわ。バックアップ施設を作るだけでも、大変な作業よ。わたしたち二人、それにサンドロとガリだけで、それをやりとげられると思う?」  カラは髪の毛をかきむしりながら、言う。 「……核戦師団と、交渉するしかないだろう。奴等なら、まだ莫大な資材をかかえているはずだ。それに、人手を借りられるかもしれん。取引するんだよ、カラ」 「いったい、何を彼等に与えるっていうの? わたしたちが彼等にあげられるものといえば……ああ……まさか、ウラジミル!」  カラが絶句した。 「その通り。我々が、彼等に与えられるものと言えば、我々の頭脳、我々の技術と知識しかあるまい。この研究所を、彼等に開放するんだ。そして我々は、核戦師団の、そう機械工にしてもらうさ……」  ウラジミルが自嘲的に笑った。そして、唇をひきしめ、長身のカラを見上げながら、きっぱりと言う。 「いいだろう、カラ? それだけの価値がある取引だとは思わぬか? これは、我々にとっても最後のチャンスだ。復讐のための、最後のチャンスなんだ!」 「ああ……」  カラは、両手で頭をおさえながら、ゆっくりとベッドのそばにしゃがみこんだ。 「……そう……これまでにも、≪月の神殿≫へ、何百人という旅人がやってきたわ。この研究所が、天界へと通じる、本物の神殿だとカン違いしてね……どこかから、噂《うわさ》を聞きつけては、さまざまな居留地から、さまざまな問題をかかえた居留民たちがやってきた……」  カラはつぶやくように、続ける。 「でも、今までここを訪れた人間たちは皆、ただただ月を本物の神のようにあがめたてまつる下界民ばかりだった。力筒《チユーブ》を少しでも多く授かれるよう天帝にとりついで欲しいとか、上納すべき農作物の量を減らして欲しい、などと頼みにくる愚かな長老たちも後を絶たなかった……しかし、わたしたちが待っていたのは、そんな奴隷たちじゃなかったのよ……」  カラの声が次第に上ずってきた。  そして、彼女はついに立ち上がった。 「そうよ、わたしとウラジミルが待っていたのは、戦士よ。復讐の戦士を、わたしたちは待っていたんだわ!」 「そうじゃよ、カラ……」  カラの激情を、ウラジミルが静かにひきとった。 「この二人の男たちに、新しい運命を創造してやる……それが、我々にできる最後の仕事なんじゃ……」  10 超戦士誕生  雷とヴィダルが、そろって、ぬっと立ち上がった。  その筋肉の束は、まるで重い鞭《むち》のようにしなやかに見える。  雷がゆっくりと五本の指を目の前にかざして試している。  ヴィダルはこぶしを握り、それで自分の腹部を打って、強い弾力を楽しんでいる。 「見事だ!」ウラジミルが感極まって叫んだ。 「いい、二人とも、まだ最後の仕上げは済んでいないのよ。あまり身体を乱暴に動かさないでね。せっかく貼りつけた筋肉が剥離《はくり》しては、最初からやり直さなくちゃならないんだから……」  慌てて二人に駆け寄るカラの声も、しかし若い女のように弾んで聞こえる。  その二人の左右に立つサンドロとガリは、ただ息を呑んで、この光景に目を奪われている。 「素晴しい! まるで本物の自分の身体みたいだ。いや、それより数十倍、素晴しい!」  雷が大音声をはりあげた。 「ひとつ注意しておきますよ、ヴィダルに雷……」  二人の人造筋肉を一束一束確認しながら、カラが言う。 「あなたたちの本物の脳は、今は人間の身体で言う心臓の位置に入っているのです。そう、そこの左胸のふくらみが、今のあなたたちの頭なの。これまでの頭部には、戦闘指揮コンピュータが埋めこまれてあるわ。だから万が一の時は、頭部よりもむしろ胸部をかばうように。そこが破壊されれば、もはやその身体はあなた方のものでは無くなって、ただの戦闘ロボットになってしまうんですからね」  カラは、また二人に作業台に横たわるよう指示した。  雷とヴィダルの生ける屍《しかばね》が、二人の科学者の手でここまで改造されるのに、すでに五か月以上の時間が費されていた。  改造というのは、余り適切な言い方ではない。なにしろ、二人の生体で残されたのは、その脳髄だけだったのだ。  戦闘ロボットのボディをベースに、そこへ二人の脳を移植するサイボーグ手術といった言い方が、最も正しい。しかし、ウラジミルとカラは決してそうは言わなかった。  肉体の強化手術と、二人は、そのオペレーションを呼んでいた。  どちらにしろ、ぼろぼろの肉体を脱ぎ去ることに、雷もヴィダルも反対する理由はなかった。  片腕で、しかも、全身を破壊され、首から下の自由を失っていた雷、胴体半分をすでに切除されていたヴィダル……二人にとってそのままの姿で生きのびること以上につらいことなど、ありようがなかったのだ。  だから彼等は、ウラジミルとカラの申し出に何の躊躇《ちゆうちよ》もなく同意した。そして古いみじめな肉体を棄《す》てて、二人は新しい人工の強力な筋肉に、その精神を託したのだった。 「……分るでしょう? 無意識の内に、まだあなたたちの脳は呼吸を求めているわ。でも、それは全く必要のない欲求なのよ。すぐに馴れるわ。また、馴れようとしてちょうだい。今ではこの力筒が、あなたたちの唯一のエネルギー源よ。これさえあれば、あなたたちは文字通り不死の存在……いい? 力筒八番……月世界でエネルギー・チューブを交換する時も、まちがえずに八番を選ぶのよ」  カラが、この新しい肉体の使用法を、繰り返し、繰り返し二人に教え込んでいく。  雷とヴィダルは硬い作業台の上で、それを復唱した。  ウラジミルはそのそばでサンドロとガリの助けをかりながら、最後の仕上げ、全身を掩う超弾性被膜の試験をはじめていた。 「カラ、こっちはもう準備できた。この被膜で筋肉組織を覆えば完成だ。神経網《センサー・ネツト》を確認してくれ。それが終ったら、いよいよこいつを被せる」  ウラジミルの声も興奮気味だ。 「いいわ、なにもかも完璧《かんぺき》よ。神経《センサー》の反応《はんのう》も申し分なしよ!」  カラが叫び返す。  雷とヴィダルは、今はない心臓が高鳴っているような錯覚反応に浸りながら、静かに目を閉じた。  …………  そして、二人が再び目を開いた時、彼等は自分たちがそろって超人として生まれ変わっているのを全身で感じていた。 「さあ、立ってごらんなさい。ヴィダル、それに雷!」カラが大きく手をのべた。  二人はゆっくりと強靭《きようじん》すぎる筋肉をなだめながら、ベッドから半身を起こす。  見なれた手術室の光景も、あらゆる光線、電波を捕捉する電子眼によってすばらしく鮮明なヴィジョンとなって見える。たとえ灯りを全《すべ》て消したとしても、その視界にはほとんど変化が起きないはずだ。 「……ヴィダル……俺には、俺には……」  自分の身体をあちこちなで回しながら、雷が声を出した。それは古い彼の声帯が発していた音に似せてある。しかも、セットされた翻訳器が、彼の意志を自動的にヴィダルたちの言葉に直している。  さらに、彼等の頭部は、かつての容貌を模した仮面《マスク》によって覆われている。  雷は、人工被膜の顔面に手をあてたまま、それを複雑に歪めてみた。 「信じられん、と言いたいんだろう、雷」ヴィダルがかわりにあとを続けた。「それは、わたしも同じさ!」  ヴィダルは一歩、二歩と前に進む。 (素晴しい感覚だ……無敵の感触だ!)ヴィダルを見つめながら、雷は頭の中でそう叫び続ける。  感激の余り、カラはもう口をきくこともできない様子だ。  ウラジミルも顔を真赤に紅潮させている。 「ああ、こんなことなら、手術前にもっと酒を飲んでおくんだった」  ようやく新しい身体に馴染《なじ》みはじめたヴィダルが、笑いながら言う。 「そうか! 俺たちはもう、食事ができない身体になったのか……」はじめてその事に気づいたらしい雷が、急に寂しそうな声を出す。 「いやいや、それは違うよ」ウラジミルが雷に近づき、その背中を軽く小突いた。二メートルを超える巨躯《きよく》となった二人と並ぶとまるでウラジミルは小人のように見えた。 「カラが教えなかったかね? 二人の口腔組織は立派に味覚を知覚できるようになっているんだ。ただし常時ではないがね。頭で命令すれば、すぐにそのための神経回路が開く。戦闘中には味覚も重要な機能を果たすからね。例えば爆発物の種類を見分けるのには、舌を使うのが一番なんだ。もちろん匂《にお》いも、分るはずだ」 「そいつは有難い! いや、もう言うことはない!」雷が歓声を上げた。 「じゃあ、さっそく、それを試してみるとするか。なあ、カラ。全員で乾杯しようじゃないか。もっとも、ヴィダルと雷はいくら飲んでも酔えないのがかわいそうだが……」  ウラジミルがそう提案した。  カラも大きくうなずく。そして、すぐ、サンドロとガリに酒の用意を命ずると、自分も宴席の仕度をするために駆け出していった。  ………… ≪月の神殿≫の観測室で、宴は長い時間続けられた。  空には皓々《こうこう》と満月が渡ってゆく。  それを大望遠鏡がゆっくりと追っていた。  今、月をのぞいているのは雷だ。 「いい? あの中央の輝いて見える所……あそこが天帝の第一王宮よ。そして、その周囲に複雑な模様が見えるでしょう……あれが天帝の迷宮と呼ばれるラビリンスなのよ……」  月面をすっかり諳《そら》んじているカラが、そのそばで説明を加えていた。 「分ります。さっき地図で見たが、頭がこんがらかってしまいそうだった……」雷が笑いながら答える。 「いえ、地図だけでは分らないわ。あの迷宮はどうやら三次元、つまり立体の迷宮になっている。望遠鏡では、どう頑張ってもその正体が分らないようになっている……それに、わたしたちが月面を離れた頃《ころ》と比べて、また数段、複雑さを増しているわ。恐らく、反乱などの事態に備えた処置にちがいない……つまり、天帝も自分を守らねばならない必要を感じている、というわけね」  カラがくやしそうに唇を噛《か》んだ。 「ヴィダル、それに雷……月面への密航に成功したとして、二人にまず探してもらいたいのは、LN素子のサンプルと、それから力筒《チユーブ》生産に必要なマニュアル類だ。その時の、最大の難関が、あの迷宮だろう。あそこに本当に迷いこんだら、まず脱出は不可能だ。かと言って、あのラビリンスを突破しないかぎり、天帝の都へは入り込めん……そして、秘密の核心は、すべてあそこに隠されているはずなのじゃ」  ウラジミルの声も苦い。 「大丈夫ですよ、わたしは迷路に沿って進む気などこれっぽっちもありません。あの王宮の仕掛けはわたしもよく知っています。だから、無駄なことはしないつもりです。そうですとも! 壁をぶち破りながら、まっすぐ王宮を目指しますよ」  ヴィダルが黒光りする全身の筋肉を波打たせて言い切った。 「でも、上陸した最初は、できるだけ事を起こさないようにね。LN素子の秘密を手に入れ、そして雷の奥さんを見つけたら、もうそれ以上の破壊は無用よ。あとはすぐに船を奪い、まっすぐ、ここへ帰って来てちょうだい。……そう、あの素子の秘密さえ分れば、地球は一世紀以内に蘇生できる……そして、天帝や天使たち、月人の支配をくつがえせるんだわ……」  カラが夢見る者の表情で言った。 「大丈夫! まかせてください、いざとなったら、月全体をぶち壊してでも、LN素子の秘密は奪い取ってきます。どうせ俺たちは、一度も、二度も死んだ人間だ。怖れるものは何もないんです。それに、この身体! 地球上でも無敵なら、重力が六分の一の月面ではもっと威力をふるえるはずだ!」  望遠鏡から目をはずして、雷が言った。 「それに、その頭につまっている戦闘コンピュータもひかえとるぞ、ヴィダル、雷。わしの苦心の作だ、忘れんでもらいたい。君たち二人の知らない、あらゆる武器の操作法、そしてあらゆる局面での戦術的対処を、その回路のかたまりがたちどころに教えてくれるだろう!」  ウラジミルが再び杯を上げた。 「そうよ、あなたたち二人は、わたしとウラジミルの息子のようなものよ。文字通りの意味でね。だからあたしたちも二人を信頼します。二人もわたしたちを信頼してくれていいのよ」  カラの顔が何かの感情を押し殺して歪《ゆが》んだ。その表情から、雷とヴィダルはそれぞれの母親を思い出していた。  いつの間にか、観測室に沈黙が下りた。  馴れない酒に酔ったウラジミルは、ごろりと窓際のソファに転がった。と、すぐに寝息をたてはじめる。 (キリ……キリ……)微かに歯車を軋《きし》ませて、天界を渡る満月を追い続ける大望遠鏡が回っていた。  夜はさらに、すさまじいほどの静寂となって≪月の神殿≫をとり囲んだ。  その沈黙の圧力に耐えきれず、またカラがひとり言のように計画を反復しはじめた。 「いいわね、二人とも。天使《ムーン・エンジエル》の天界船が、この山の南、もと洛陽《ルオカン》と呼ばれた都市の近くにある居留地八五二、キャンプ函谷《ハンクー》に巡回してくるのが、多分二週間後……それまでは近くに潜んでチャンスを待つのよ。そして、力筒《チユーブ》の積み下ろしがはじまったら、古い力筒をつめたコンテナにもぐり込んで、荷物ごと船倉にもぐりこむのよ……」  自分に言いきかせるように、カラは喋り続ける……。 「力筒を収容する船倉は全くコンディショニングされていないわ……だからもし生身の密航者がそこに隠れても、大気圏を出るまでも生きてはいられない……だから、彼等も全くそこを警戒していないはずよ。でも、あなたたちだけに、密航は可能なんだわ……空気も熱も、全てを奪われても、あなたたちなら平気なはず……そして月の都に天界船《カーゴ》が降りるまで、あなたたちはそこに隠れていればいい……そして、そして……」  カラの声を背後に聞きながら、雷は再び大望遠鏡の接眼レンズに、そのパワーアップされた電子アイをあてがった。  緑色の霞を通して、真円に輝く月の表面がはっきりと細部まで見てとれた。 (あのどこかに、小美が、そして居留地から連れ去られた女たちがいる……)雷はそのことを考えてみた。しかし、何故《なぜ》か、それはかつてのような切ない感興を彼にもたらしはしなくなっていた。 (俺の、女を愛するための資格が、すでに失われたためだろうか……)と雷は思った。それはひとつ、確かなことだ。生まれ変わった雷は、もはや性を持たぬ、いや持つ必要のない戦闘機械と化していたのだ。  しかし、雷はそこで物思いを打ち切った。 (どうでも良いことだ……俺はともかく、月へ行く。行かねばならぬ。そして復讐するのだ。それが、俺の目的だ。それしか俺に目的はない!)  雷は月の美しい緑の山野と、そこに点在するさまざまな都、宮殿、庭園の姿を飽かずに眺め続けた。  ことに天帝が住むという第一王宮と、その周囲に不気味に拡《ひろ》がるクモの巣のような迷宮に目をこらした。 (ぶっ壊してやる!)雷はその月の都を睨《にら》みつけながら、自分に誓った。(今に見ていろ!)  雷は、生身であった頃の無意識な反応で、大きく息を吸い込もうとした。そして、それが出来ない自分を発見してうろたえた。  しかし、もはや雷にとって、そうであることは悲しみの感情とは結びつかなかった。雷は、それを自分の強力さ、無敵の象徴として考えようとした。 (俺は、息を吸う必要もないほどに不死身なのだ!)雷は全身の黒光りする筋肉の束を波打たせた。  そして、振り返った。見つめ返すヴィダルと目があう。  そして二人の視線がからみ合う中央に、カラが立った。 「我が復讐の息子たちよ」カラは何ものかに憑《つ》かれたように目を光らせた。「ウラジミルとわたしの復讐の誓いが生み落とした怪物の体躯《たいく》……そしてそこに宿ったヴィダルと雷の炎のような復讐の心……さあ、復讐の戦士たち! 行きなさい!」  カラが声をつまらせながら、叫んだ。  その声が、雷とヴィダルから、残り全ての迷いを拭《ぬぐ》い去ったのだった。  …………  …………  キャンプ函谷《ハンクー》へ出発する前の十日間、雷とヴィダルは≪月の神殿≫の周囲、太行山脈の険しい山岳地帯で徹底的な軍事訓練を行なった。  人工の巨躯と戦闘コンピュータ、それに生身の脳髄の間にあるギャップをぎりぎりまでとり除こうというのだ。  戦場にあっては、例え目に見えないほどの反応の遅れも、時として致命的だ。  雷とヴィダルは、その強靭な筋肉の全てを思うがままに操れると確信できるまで、幾度も幾度も基本的な作動トレーニングを繰り返したのだった。  身につける武器は核戦師団から手に入れた歩兵用の力線銃、それにハンドガン・タイプの電撃銃だ。それら銃器の予備力筒は腰の弾倉帯に収め、さらに小型のハンド・ミサイル十発もそこに吊《つ》る。刃わたり二十センチの野戦ナイフも装備した。  彼等の恐るべき筋力に操られると、ただのナイフが電撃銃以上の凶々《まがまが》しい武器となった。  一日ごとに、二人の戦闘能力は爆発的に向上していった。  余りのことに怖れおののいたウラジミルが、カラに訓練の中止を進言したほどだ。  ともかく、そうこうするうちに、決行の日は近づいた。  体内の力筒を新品に替え、予備筒はバック・パックに収めて背負った。  ライフルや電撃銃、ナイフもひとつひとつ確認しながら身につける。  カラが、二人に簡単な注意を与えた。ウラジミルは、もう何も口に出さない。  すでに言葉は不用だった。やがて指示を終えたカラも口をつぐむ。四人の視線が複雑にからみあった。 「では、行きます」  ぽつりと、ヴィダルが言った。  雷は軽くその巨躯をかがめる。  そして二人は一瞬のうちに身をひるがえすと、≪月の神殿≫から、まっしぐらにキャンプ函谷めがけて急峻《きゆうしゆん》な山道を駆け降りはじめたのだった。  11 天帝の迷宮  カラの予測通り、その日、天界船は函谷《ハンクー》にやってきた。  前日から居留地の倉庫に忍びこみ、空の力筒を収めたコンテナの中に身を隠していた雷とヴィダルも、外の気配でそれを知る。キャンプ函谷《ハンクー》は、近くの鉱山から美しい赤い貴石を産するために、天帝に認められている居留地だ。  居留民はそれを天使《ムーン・エンジエル》に差し出し、かわりに新しい力筒を受け取る。それが終ると、今度は古い力筒の積み込みが始まった。  コンテナのなかで、二人は思わず身を硬くする。すさまじいほどの筋肉の束が、音を立てて脈打った。  しかし何事も起こらず、二人の潜むコンテナは天界船に運びこまれた。  二人はエネルギーを節約するために、全身の八割の活動を停止させ、仮死に似た休止に入る。  やがて、天界船が震動し、上昇を開始したことが分る。  月の都への長い旅が始ったのだ。  急激に周囲の温度が下降してゆく。天界船の船倉がコンディショニングされていない、という情報も正しかった訳だ。空気が音をたてて船外に洩れ、稀薄《きはく》になってゆく。  周囲は真の闇だ。もちろん二人にとって、全くそれは苦にならない。照明されている時同様、全てがはっきりと視認できる。しかし、今の二人の視界にあるものと言えば、空の力筒の連なりだけだ。  二人は、目もとじる。  無言の世界だった。音を伝えるべき気体がすでに完全に船倉から抜け去っていた。  だが、そのことが、二人に月への確実な旅程と接近を思わせた。そして床をかすかに伝ってくる鈍い船内機関の震動が、二人に時間の経過を教えていた。  旅は順調に、しかし単調この上もない推移で続いているらしかった。  二人は待った。  ただひたすら、全身を休止させながら、待った。  そして、ついに、船倉内の状況が激変する時がきた。  すべての物音が、一挙に、劇的に蘇ったのだ。と同時に、船倉内のランプが一斉に点灯する。  天界船が、月の人工的な大気圏、即ち緑色の靄《もや》のような輝きを帯びているバリヤーの内部に突入したのだ。 (到着だ! ついに、俺たちはやって来たぞ!)  雷とヴィダルの戦闘コンピュータは、天界船がバリヤーを通過する直前、すでに目覚め、全ての回路にエネルギーの奔流を流し込みつつあった。  宇宙空間の真空中で凍《い》てついた筋肉が、たちまち弾性をとりもどしてゆく。 「ヴィダル、コンテナを出て隠れ場所を探すんだ!」  いち早くコンテナから脱出した雷が短く叫んだ。  着陸地点へのアプローチに入った天界船は、月の小さな重力に楽々と船体を浮かべ、ほとんど振れもせずに降下してゆく。  その間に、船倉の床に立った雷とヴィダルは次々と装備を点検した。  天界船の着陸地点は、月の表側に三か所ある。外へ飛び出したなら、まずこの空港がそのうちのどこかを確認しなくてはならない。そしてそこから、天帝の第一王宮、天帝の迷宮を目指すのだ。  と、ズン、と軽い衝撃があって天界船の動きが停止した。 「ヴィダル、こっちだ! ここにとりあえず隠れよう!」  そう言って雷は、船倉の入口近くにある壁のパネルに手をのばした。そのまま、すさまじい力でそれをひきはがす。  そして内部を走る配管などを押しつぶしながら、自分の身体《からだ》を無理矢理そこに突っ込んだ。  ヴィダルもそれに続く。そしてめくれ上がったパネルを内側からひっぱって、元の位置にもどす。  二人は、壁の中に、その巨躯を隠し終えた。  すると、待つまでもなく、船倉の扉が開いた。そして、そこから思いもかけぬ物音と悲鳴が二人の耳に届いてきた。  なんと、その音は鞭が人肉に食い込む、しめったような響きだ。それに悲鳴がまじる。  好奇心を押さえきれず、雷は少しだけパネルをずらして船倉内をのぞきこんだ。 (…………!)思わず、雷の獰猛《どうもう》な筋肉が痙攣《けいれん》した。  半裸の男たちが、天使の鞭に追われて船倉内によろめき入ってくる様子がそこから見えたのだ。  男たちは、その骨太な様子から、明らかに下界の人間と知れた。  それを監視する天使たちは、皆、仮面《マスク》を今ははずしている。彼等は全員が月人特有の繊細な顔つきの青年たちだ。何の躊躇もなしに、笑いさざめきながら、地球人に鞭を振りおろしている。 (そうか……下界の人間を、天界に召し上げる、とはこの意味だったのか……)雷は手に持つ壁面パネルを思わず握りしめた。(月人たちは、地球人を完全な奴隷としてこの世界へ連れて来ていたのか……)  男たちがこの様子では、女たちが何をさせられているか分ったものではない。  ヴィダルが言っていた食人の噂が、にわかに現実のこととして感じられた。  雷はそっと身体の位置を入れ替え、ヴィダルにもこの光景を見せる。  かつての月界の住人ヴィダルは、かすかに首を振り、闇の中で雷を見返した。 「その通り……これが天界の姿なんだ」ヴィダルが、つぶやいた。 「許せん!」雷の声帯が怒りで震えた。  彼は、ただこうして身を隠していることに耐えられない気分になりはじめていた。  小美やLN素子の事は、二の次、三の次でいい。今や雷は、ただただ一刻も早く、この月人たちにとっての楽園を叩《たた》きつぶさなくては気が済まないような激情に駆られだしたのだ。 「い、行こう、ヴィダル。暴れよう……」雷が言った。 「よし!」雷の気持ちを悟ったのであろう、ヴィダルもそれに同意する。  二人は同時にパネルを突きとばした。そして、作業に入った地球人と、これを鞭で追う月人の天使の間に割って入った。 「この薄汚ない月人共め!」雷が大声音をはり上げた。 「皆殺しにしてやる!」ヴィダルも叫ぶ。  思っても見なかった闖入者《ちんにゆうしや》の出現に、全ての人影が一瞬凍りついた。  それを幸いに、ヴィダルと雷の力線銃《パワー・ライフル》が、短いパルスを点射しながら、次々に黒い鎧《アーマー》の天使たちを血祭りに上げていった。  ひと呼吸おいて、地球人奴隷の間から、とまどいがちな歓声が上がった。 「お前たち! 恥を知れ! こんな奴等の奴隷となるために、はるばる地球からやってきたのか、え? ぺこぺこと頭を下げ、天使にへつらって、ここへ連れてきてもらったのか!? どうだ、武器をとって闘え! 天使たちの武器を奪うんだ!」  雷が地球人に向かって、言い放つ。  おずおずと、倒れた天使の武器に手をのばす者もいる。  しかし、大半はただ呆然《ぼうぜん》と、この光景を前に息を呑んで立ちつくしている無気力さだ。  しかし、そんな奴等にかまっているヒマはない。  雷とヴィダルは一挙動で、船倉から外部へと躍り出た。 「うん、分るぞ! ここは第二着陸場、通称ポート・カールだ」  ヴィダルが見おぼえのあるコントロール・センターの尖塔《せんとう》を発見して、そう断言した。 「ということは、このすぐ近くに天帝の迷宮があるはずだ!」雷が叫ぶ。「どっちだ!? どっちへ進めばいい?」  すると、その疑問に、すぐさま頭部内蔵の戦闘コンピュータが答えてくる。 「そうか、この走路に沿って前進すればいいんだ!」  二人は力線銃《パワー・ライフル》を腰だめに構え、そして走り出した。  全身の黒光りする筋肉が躍動する。人間というより、その姿は豹《ひよう》のようだ。  一歩のストライドが、ここ月面では十数メートルにまで達している。  たちまち空港を突っ切り、周辺の緑地帯を抜ける。  月人たちの反撃はまだ本格化しない。それより、余りに素早い二人の移動を、誰《だれ》一人として把握しきれないでいるに違いない。  すると、前方に、まるで鏡と宝石を積み上げて再結晶させたようにきらめく、広大な構築物の姿が見えてきた。 「あれか!?」雷がヴィダルに訊《き》く。 「そうだ! あれが天帝の迷宮だ。突っ込もう!」ヴィダルが答えた。  と、数秒とかからず、二人はその外縁に達していた。  バリヤーによって柔らげられているとは言え、降りそそぐ太陽の光は強烈だ。その太陽が、とてつもない規模の迷宮全体を、惑乱させるような光線で満たしている。  無数に、いたるところに、迷宮の入口が口を開けていた。そしてそのどれもが、奥行きも知れない迷宮の中心へと一気に入りこんでいるようだった。 「お互い、はぐれないように気をつけよう。一人一人になっては戦闘力が五分の一に落ちてしまう……戦闘コンピュータが、そう教えてくれている」雷が言った。  ヴィダルもうなずく。 「とにかく、あの入口のどれかから入ってみるしかない。どの道、この迷宮を突破しないかぎり、天帝の住む第一王宮には行きつけない」 「よし、じゃあ、正面の入口だ。あそこから突っ込もう!」雷が早くも駆け出す。  ヴィダルとは違って、雷はまだかつての妻小美になんとしても再会するつもりだ。その期待が、彼を激しく駆り立てていた。  雷を追って、ヴィダルも迷宮へと跳び込んでいった。  途端、めくるめくような光の渦がまるで液体であるかのようにまといつき、二人の現実感をいっきょに喪失させる。  今入ってきたばかりの入口の方角すら、もう分らない。そればかりか上下感覚まであやふやにさせるほどの、すさまじい幻覚装置だ。 「おい! ヴィダル、どこだ、どこにいる!」雷が声をかぎりにヴィダルを呼ぶ。 「ここだ、こっちだ」意外とすぐそばから答がかえってきた。  電子眼にさまざまなフィルターをかけると、ようやく渦巻く光の中から、ぼんやりヴィダルのシルエットが見えてきた。  ここでは、まるで光が生き物のように動き、飛び、走り、二人にまとわりついてくる。全く信じがたい光景がその迷宮の内部を埋めていた。  互いにのばした手が、ようやく触れ合う。 「しかし、それにしても……」ヴィダルが呻《うめ》いた。 「……この迷宮の中へ入ったのははじめてだが、まさか、これほどのものとは……信じられない……狂気だ、狂気の産物だ!」  ヴィダルのおぼろな影が、片腕を振り回す。  それにつれて、光の帯がゆらゆらと渦を巻いた。 「さすが、天帝の迷宮と呼ばれるだけはある。俺たちのこの�目�まであざむくとは、一体、誰がこんな場所を創《つく》り上げたんだ」  雷が力をこめてヴィダルを自分の近くへ引き寄せる。 「……しかし、どうやって進む……俺には何が何だか……どうなっているのか、見当もつかない。ここは本物の魔術で創られた迷宮に違いない」冗談めかしてはいても、雷の声には、今やはっきり恐怖が感じられた。  二メートルを越える黒光りする二体の筋肉の塊は、互いに手を握り合い、恐る恐る光の渦の中を進んで行った。  屈強無比をついさっきまで自認していた戦闘機械は、ここで、まるで生まれたての幼児さながらの頼りない有様に成り下がっていた。 「……ヴィダル、こんなことをしていても埒《らち》があかない。ハンド・ミサイルを使おう」  ついに苛立《いらだ》って、雷が腰の得物に手をやる。 「いや、待て、雷。なにしろこの迷宮は、直径が五十キロ近い広大なものだ。こんな所をただ盲めっぽう武器でほじくり返しても、間に合いっこないさ。すぐ、装填《そうてん》エネルギーが底をつく」  ヴィダルは手をのばして、雷の短気をいさめる。 「じゃあ、どうする!?」と雷。 「今、それを考えているところだ。しかし、考えれば考えるほど、とてつもない迷宮装置だ……知りもせずに飛び込んだわたしたちが安易だった……」  ヴィダルはしばし立ちどまり、そして腕を組んだ。 「俺はもう耐えられん! こうしてやる、こうしてやる!」  突然、雷が叫びだした。そして力線銃をでたらめに構えると、周囲の光の渦めがけて乱射した。  いずことも知れぬ深淵《しんえん》に、その力線は吸い込まれ、そして無気味なこだまがその奥から返ってくる。  光の渦は、力線によってわずかに乱されはしたものの、再び、より執拗《しつよう》に、二人の周囲をたゆたいはじめた。 「畜生! 畜生! 畜生!」なおも引金を絞ろうとする雷を、今度はヴィダルが断固たる調子で制した。 「やめろ! 分ったぞ、この迷宮を抜ける手段が……分ったんだ」 「えっ!? それは本当か……」雷のヒステリー症状が一瞬姿をひそめる。 「ああ……いいか、雷……このわたしたちの回りの光の渦は、あくまでも現実じゃない。非常に特殊な、そして強力な幻影装置によるものだ」ヴィダルが説明する。 「そんな事は分っている。だから、どうだって言うんだ!」雷は前置きを待っていられないほどの焦りに捉《とら》われている。 「それで、さっき、ふと気づいたんだ。雷が、無差別にあたりを銃撃した……そうしたら、遠く、近く、かなりの長い時間、こだまが聞こえていた……そうなんだ……俺たちの目は完全にだまされているが、耳なら、音波なら頼りになるかもしれん」 「ヴィダル! ヴィダルの言う通りだ!」一転、雷の声が躍り上った。「そうか、音か!」 「うむ! やってみる価値はあると思う。とにかく、何か大きな音をたてるんだ。そしてそれによって返ってくる反響音を、戦闘コンピュータで分析すれば……あるいは、この迷路の構造が見えてくるかも知れない。どうだ、この考えは……」ヴィダルはそう言って、光の渦をかき分け、一歩前に出た。 「素晴しい、ヴィダル。俺はすっかり動転してしまって、自分のしたことの意味さえ気づけなかった……そうか、確かに、音波なら、いけるかも知れん。で、ヴィダル、何を使う?」 「まずは、これだ」  ヴィダルは腰の電撃銃を抜いた。 「なぜかと言うと、俺たちのすぐ目の前まで、現実には壁が迫っているかもしれないからだ。あるいは、何千メートルも前方まで空間的には何もないのかもしれない。だが、この光の渦で、俺たちにはそれが分らない。下手にハンド・ミサイルを投げて、一メートルも飛ばないうちに爆発されてはたまらない……」  そう言うなり、ヴィダルはまず電撃銃の発射ボタンを押した。  銃口から細く鋭い光線がほとばしる。  それが一瞬、光の渦を切り裂いた。そして、前方のどこかにある壁に命中して、やはり雷鳴のような低い反響を残した。  その音の拡がりを、戦闘コンピュータが分析し、解読して、大ざっぱな迷宮の三次元地図にまとめる。 「よし! 見えた」まず叫んだのは雷だ。  天帝の迷宮、その一角がおぼろげながらひとつの像となって二人の脳裡《のうり》に焼きつけられた。 「やはり、そうか。この迷宮は、光のトリックを除けば、ただの錯綜《さくそう》した、昔ながらのラビリンスに過ぎないんだ! 抜けられるぞ、ヴィダル! 前進だ」  もはや二人は、視覚による認識を一切棄てて、ただ音波が与えてくれる情報だけを頼りに進んでいった。  とはいえ、もちろん、ここは迷宮だ。正しい道を知らない二人は、主要な隔壁と思われる部分を、ハンド・ミサイルや力線砲《パワー・ライフル》で破壊しながらの前進である。  時には直接、その巨体を壁に体当りさせてぶち抜く。  そしてさらに、そうした破壊音の拡散によって、ラビリンスの構造を見極めては、さらに前進する。  破壊の快感が、二人の精神をいやが上にも高揚させていった。  それにつれて、加速度的に前進のペースも早まる。  ほとんどがむしゃらと言える手段で、雷とヴィダルは≪天帝の迷宮≫を突き破りつつあったのだ。  そして、突然、一枚の隔壁を抜けて見ると、もはや、そこに光の渦はなかった。  正常な空間感覚が、いきなり二人にもどってきた。目が正しい物質を見ていた。 「……抜けたんだ」ぽつんとヴィダルが言った。「俺たちは天帝の迷宮を抜けたんだ」 「だとすれば、ここはもう王宮だと言うことか!?」雷がつぶやく。  そこは巨大な何かのホールのように見えた。  全体に見たこともないほど贅沢《ぜいたく》な作りがほどこされている。  二人はしばし呆然と、この光景に見とれた。 (これこそ、月だ)と雷は思った。地球の人間たちを虫けらのように踏みにじり、その実り、文化、技術の全てを吸い上げて、平然と贅沢のかぎりをつくす。  怒りよりも、空しさを覚えさせる光景だった。  その時、突然、天井から何かが二人めがけて落下してくるのが感じられた。二人の意志に関係なく、戦闘コンピュータが最優先順位で、働き出す。  雷とヴィダルは、一挙動でその落下してくる黒い影を叩き落としていた。 「…………!」 「糞《くそ》!」  なんと、二人めがけて次々と襲いかかってくるのは、奴隷の地球人たちだ。簡単な武器を握らされ、まだ衰えていない地球人並みの筋力を頼りに、ホールの天井近くにあるテラスから物も言わずに跳びかかってくる。 「な、なんだ、こいつらは!」 「やめろ! おまえたちを助けに来ているんだぞ!」  二人は口々に叫ぶ。  しかし、さまざまな武器を手にした三十人余りの地球人は、叩きふせられてもなお起き上がり、二人の周囲に人垣をつくって立ちはだかった。 「どうする、雷……」地球人と見て手加減したから、まだ死人は少ない。  その中のひとりが、大ぶりな刀を振りかぶってヴィダルに切りかかってくる。  ヴィダルはそれを避けようともせず、強靭な筋肉で直接刃を受けとめた。力いっぱい叩きつけられた刀は、あっけなく半分に折れ飛んだ。それでも、ヴィダルの外被にはかすり傷ひとつ残らない。  それを見た雷が、横から急に手をのばす。そして、切りかかってきた男の首根っこをわし掴《づか》みにした。 「おい! 地球から連れられてきた女たちはどこにいる? どんな目にあってるんだ!」  すさまじい声で訊く。しかし、男は訳の分らない言葉をわめき散らし、ただただ暴れまくる。雷の言葉が理解できないらしい。 「糞っ!」苛立って雷は男を床に叩きつけた。嫌な音をたてて男はつぶれ、動かなくなる。 「よし! 皆殺しにしてやる、この奴隷共め!」  雷が怒り狂って叫んだ。  そして、その言葉を聞いて逃げ腰になった数人に、とびかかってゆく。威嚇の言葉が通じる相手なら、雷の言葉が分るということだ。 「よし、ヴィダル! つかまえた、あとの奴等は片づけてくれ!」両手に男ふたりをぶら下げた雷が怒鳴る。 「分った!」猛獣のようにヴィダルは奴隷たちの群に飛び込んだ。  そして、手あたり次第に蹴散《けち》らす。  その間に、雷はつかまえた二人の男を宙に吊り下げ睨みつけた。 「さあ、女たちの居場所を教えてもらおう! 地球から連れてこられた女だ。最近、ここ半年ほどの間に天界へやってきた女はどこに居る!?」  しかし、二人はめちゃくちゃ手足を振り回すだけで質問に答えない。 「早くしろ! 生き残るのは、おまえたちのうち、ひとりだけだ。先に答えた奴は許してやる。答えを渋った方はそのまま床に叩きつける!」雷は二人を掴む指に、さらに力をこめた。 「ま、待ってくれ! 女たちは、天帝の後宮のひとつ、リラン宮にいる! 地球から来た女は、まずそこに集められるんだ」  たまりかねて、ひとりが叫び出す。 「いや、オレはリラン宮の位置を知っている。第一王宮の西の端、その地下が、リラン宮だ!」  先を越された男も負けずに喋《しやべ》り出す。 「本当だな。二人とも本当のことを言っているなら助けてやってもいいが……」雷は二人の男の顔を交互に睨みつける。 「ああ、そいつらは正直に言っている。わたしが月界にいた時も、そういう話を聞かされている」  ヴィダルがかたわらで、そう保証した。 「本当だ! 助けてくれ!」 「やりたくて、あんたたちを襲ったわけじゃないんだ。こうしなければ殺されてしまう!」  男たちは泣きわめいた。 「よし、分った……」雷はつぶやくように答えると、目にもとまらぬ動きで、二人の頭と頭を正面衝突させる。ざくろのようにつぶれた死体は無造作に投げ棄てた。 「行こう、ヴィダル」雷は歩きだす。その声には今や全く感情がない。 (小美と会える……)その予感が、彼をひどく無慈悲な戦士にしたてあげていた。  その時である。  かなたに見えるホールの対面が、あっという間に湧《わ》き出してきた黒い影で埋められた。よく訓練された動きだ。得体の知れぬ巨大な兵器も姿を見せる。 「…………!」  二人が思わず足をとめた時、ホールいっぱいに、むしろ朗らかに聞こえる笑い声が響きわたった。 〈ワッハッハッハ……もう余興は終りじゃ……おまえ達は死ぬんじゃ……ワッハ、ワッハ……〉  声が、また笑った。 「なんだ! ふざけるな!」負けずに雷も怒鳴り返す。しかし、どうも雰囲気は異様だ。 〈密航者に気づかんとは、実に情ない天使どもだ……それにしても、なかなか手強い敵を連れてきおったようだ……〉ひとりごとのように声がつぶやく。 〈……まあいい。面白い見世物じゃ……さあ、天使ども、殺《や》れ! 殺るんだ!〉  声が一段と大きくホールに響き渡った。 「天帝だ……天帝の声だ……」  雷の背後に立つヴィダルが、筋肉を軋ませながら、そうつぶやいた。 「ついに、やつが、出てきた……」  12 楽園の殺戮《さつりく》  ヴィダルが、憎悪と畏《おそ》れ、という相反する感情にとらわれているのは明らかだった。  雷も一瞬、≪天帝≫の名を聞いて本能的な恐怖を覚える。  しかし、そんな二人のためらいに似た感情には関係なく、頭部に内蔵された戦闘コンピュータは、彼等の全身を疾風《はやて》のように操り、攻撃に転じていた。  次々に小型ハンド・ミサイルが、ホールの対面を埋めた天使の軍団めがけて投げつけられる。そして、そのミサイルと速度を競うかのような勢いで、二人は敵陣に殺到した。  遠くから狙《ねら》い撃ちされては、いくら頑強な二人と言えどたまらない。  しかし、敵陣に躍り込み、接近戦闘となれば、もうはじめから勝敗は明らかだった。  敵はひ弱な月人の天使だ。黒い鎧《アーマー》、筋肉強化服で、やっと地球人を越える戦闘力を保持しているような奴等だ。  全身鋼鉄以上にしたたかな人工筋肉を束ねて創られた雷やヴィダルの敵ではない。  黒い天使たちが隊列を組む大ホールの対面まで、約五百メートルを、二人はロケットのように数秒で駆け抜けた。今や、一歩が百メートル近い。  走り出す前に投げたハンド・ミサイルが次々と炸裂《さくれつ》する中へ、二人は突入した。  力線銃の引金は絞りっぱなしだ。たちまち、エネルギーが切れる。しかし、それを再装填する時間も惜しい。二人は銃の台尻《だいじり》で天使を手当り次第、なぎ倒す。余りの打撃の激しさに、さしもの銃身も、すぐに砕け散る。  予想をはるかに越える狂暴な二人の攻撃で、天使たちの前線は完全に粉砕されていた。 「雷! もういい! このまま、王宮に突入するんだ。こいつらと遊んでいるヒマはないぞ!」  狂気の破壊欲求から、ふと我に還ったヴィダルが叫ぶ。 「ウォーッ!」つかまえた天使の身体をふたつに引きちぎっていた雷が、まるで猛獣そのものの声でそれに応《こた》える。  たちまち二人は、黒い弾丸となって、王宮へと続く広い長い回廊へとまっしぐらに飛び込んでいった。 〈おい! おまえたちは一体、何者だ! 待て、おい!〉  彼等の背後から、あの声が再び追ってきた。さっきまでの自信満々な調子は幾分影をひそめ、とまどっているのが二人にも分る。  敵は、明らかに、雷とヴィダルの戦闘能力を見くびっていたのだ。  今になって、この天界への侵入者が、本物の怪物だと気づきはじめたのだろう。  しかも、その怪物の心臓部には、決して冷めることのない復讐《ふくしゆう》の烈火が燃えさかっているのだ。 〈待て! おまえたち……話を聞こう! いや、要求があるなら、受け入れよう〉  秒速百メートルに近いスピードで隔壁を打ち破りながら進む二人を、次第に悲鳴のように高まる声が追いかけてくる。 �声�の主は、二人の姿をどこかでモニターし続けているらしい。  それに応えず、二人は漆黒の筋肉をバネのようにたわめ、すさまじい勢いで眼前の壁に突き当っていった。  一度……二度……無数のヒビが一面に走ったかと思うと、その月の岩でつくられた壁は、あっけなく吹き飛ぶ。  雷とヴィダルは、相ついでその突破口をくぐり抜けた。 「……おお!」  思わず雷が足を停め、唸《うな》り声をあげた。  そこはこの世のものとも思われぬほど美しい大庭園だ。  鬱蒼《うつそう》たる樹々《きぎ》にかこまれて花々が咲き乱れるその景観は、もはや地球のどこを探しても見つからぬものだった。二人の侵入に驚いて、色あざやかな鳥の群があちこちから飛び立つ。  荒廃した地球にあっては、恵まれた緑の園と見えた雷の故郷キャンプ夏古も、この美しさと比べれば、まるで荒野だ。 「……むむむ……」天界育ちのヴィダルも、その神聖なほどに完璧《かんぺき》な庭園の調和を前にたじろいだ。  こればかりは、そうひと思いに破壊できない、という思いが、二人の張りきった筋肉を痙攣させた。戦闘コンピュータと生身の頭脳との間で、激しい葛藤《かつとう》が起っているのだ。  そこへ、また�声�が降ってきた。 〈君たち! 君たちにも、この庭園の美しさが分るんだな!? そうなんだ、君たちはただの血に飢えた野獣ではないんだ……さあ、話してくれ! 話し合おう、何が望みだ〉  声はようやく余裕をとりもどしたらしい。あやすように、なだめるように、雷とヴィダルに話しかける。 〈……君たちは、あの≪月の神殿≫からやって来たんだな? そうだろう、ようやく分ったんだ。思い出したよ、ウラジミルとカラだ。あの二人以外に、こんな怪物を創り出せる人間はいない。いや、失礼。さあ、お願いだから、この庭園だけはこのまま残して欲しい。もう、君たちのすさまじい戦闘力は、嫌と言うほど思い知った。決して、これ以上、君たちに手だしはしない。それに、要求には何でも応じるつもりだ。さあ、言ってくれ、君たちの望みを……〉  それを聞いて、二人は顔を見合わせた。  ヴィダルが軽くうなずく。 「よし、俺たちの要求を言おう」雷が切り出した。 「……まず、半年ほど前、この月の都へ連れてこられた女に用がある。キャンプ夏古の小美だ。すぐに、連れてくるんだ。妙な小細工をしたら、その時は許さんぞ!」 「そして、もうひとつ要求がある。LN素子だ! 素子の見本、それにエネルギー変換と蓄積システムのためのマニュアルも、こちらに渡すんだ。その後、わたしたちが地球へ無事に帰るための船も用意してもらおう。二台だ! わたしたちは一人ずつ地球へ帰還する。宇宙空間で二人いっしょに吹き飛ばされてはたまらんからな。もし裏切ったら、残った方が徹底的に復讐してやる!」  ヴィダルが後を続けた。 〈女と言ったな、小美か……うむ、すぐに探し出す。しかし、その女は君たちの何だね? それほどまでして、こだわるというのは……〉 「やかましい!」雷が�声�を怒鳴りつけた。 〈いや、これは失礼なことを言った……しばらく、待ってくれ……〉声が卑屈に調子を柔げて答えた。  それきり、沈黙の時が流れた。雷とヴィダルは背中合わせに仁王立ちになり、油断なくあたりをうかがう。  その時だ。庭園の奥から、軽い、優雅な足音が響いてきた。 「誰だ!」雷が叫ぶ。  と、緑の小道から、花々を分けて二人の女が姿を現わした。 「小美!」雷が全身を硬直させる。「……それに、それに結《ユイ》……」  女たちは光り輝いていた。キャンプ夏古で暮らしていた同じ彼女たちとは、すぐに思えないほどの変貌《へんぼう》ぶりだ。ともに、薄い絹のローブに包まれて、そこで立ちつくしている。 「だ、誰なの? 許して、あたしたちは何も知らないわ」悲鳴のようにつぶやいたのは、雷の妻だった女、小美だ。 「俺だ、小美。おまえの夫、雷だ」 「な、なんですって!?……」小美は絶句した。両の瞳《ひとみ》が恐怖のあまり、極限まで見開かれている。  そして一瞬の後、彼女の目に新たな恐怖が走った。  彼女はついに、眼前に立つ巨大な怪物の黒い仮面《マスク》の上に、自分の夫の面影を認めたのだ。  悲鳴を上げて、小美はとびすさった。下草に足をとられて尻《しり》もちをつく。まぶしいほどの下半身がむき出しになった。  しかし、雷はその時、彼女の本心を見抜いていた。小美の目の奥には、ただ恐怖しかなかった。恐怖と、闖入者に対する憎悪しかなかったのだ。雷はもうそれ以上、小美を追おうとしなかった。  ただ彼は立ちつくして静かに言った。 「小美……覚えているだろう、俺はあの日、左腕を失った。そして村から追われるように逃げた。荒原をさまよい、超軍団の戦鬼どもに追われてさらに傷ついた。俺に残されたのは、実際、この身体の中にある脳ミソだけだったんだ。だから俺は、古い肉体をすててきた。そうさ、なにもかもすててきたんだ。そして、俺はやってきた。おまえにひと目会うために……もしできるなら、おまえを、ここから救い出そうと………」 「嘘《うそ》よ! 小美、だまされちゃ駄目よ!」  突然叫んだのは、結だ。  あの日、小美といっしょに夏古から連れさられた娘のひとり結が、まなじりをつりあげて、雷にくってかかってきた。 「なにを言う!? 結、俺の顔をよく見ろ! 覚えていないのか? 俺は雷だ。おまえと同じ夏古で育った雷だ」  結の口調の激しさに驚きながら、雷は言った。 「いいえ、嘘よ。そうに決まってる」  結はもう一度、断言した。 「だって、そうでしょう? わたしの知っている夏古の雷は、小美のことをこの上もなく愛していたはずだわ。その彼が、ここへやってくるはずがないじゃない。愛する妻の幸福を、こんな風にしてぶち壊しにくる怪物が、雷のはずはないわ!」 「こ、幸福……それをぶち壊しにだと!」  今度は雷が叫ぶ番だった。 「きまってるじゃない。口では何と言おうと、誰だってこの月が、比べるもののない無上の楽園だと知っているわ。その一員にわたしは選ばれたのよ! それを、その幸福を、夫だった人間がめちゃめちゃにしようとするはずがないわ!」 「う、うう……」雷が全身を激しく震わせはじめた。 「う、ううううう……」  その一瞬のスキをついて、なんと結が女豹《めひよう》のように動いた。背後に隠し持っていた小さい粘土状のかたまりを、雷のとなりのヴィダルめがけて投げつけたのだ。  そして自分は身をひるがえし、背後の密林に消える。と、慌てふためいたように、小美もその後を追って姿を隠した。 「おうっ!」ヴィダルが叫んだ。  そのひと呼吸をおいて、すさまじい爆発が起こった。  そばに居た雷も爆風を食らって吹きとばされる。身体のどこかで回路がショートしたのか、一瞬目の前が暗くなる。しかし、すぐ予備回路に切りかわった雷の視力は回復した。 「ヴィダル!」  あたりに立ちこめた爆発煙をすかして、雷はヴィダルの姿を探す。  その時、煙の背後から、恐竜もかくやと思われるような咆吼《ほうこう》が轟《とどろ》きわたった。  ヴォオオオ——ッ!  そして、また一回。  煙が晴れてきた。雷は巻き上げられた土ぼこりのヴェールごしに、その咆吼の主をうかがう。 (ヴィダルだ! 無事だったんだ!)  そこに両腕を高々と差し上げて立ち上がったのはヴィダルだ。だが、彼の左胸が、醜くつぶれているのに雷は気がついた。  結の投げつけた爆薬が、彼の胸に命中し、爆発したのだ。  押しつぶされた左胸の内部で、唯一本物のヴィダルであった部分、彼の脳髄が破壊されたであろうことは容易に想像できた。  ヴィダルは、死んだのだ。  もはや、そこに居るのはヴィダルではなかった。  狂気の破壊機械、強力無比の戦闘ロボットが後に残されたのだ。  それが、再び吼《ほ》えた。  もう誰も、そのロボットを制御することはできない。ただ戦闘コンピュータの殺戮《さつりく》本能が命ずるまま、ロボットは暴走するしかない。  と、一瞬前まではヴィダルであった黒い怪物が跳躍した。たちまち、密林の奥に突っ込んでゆく。  そしてその姿が消えた先、はるかかなたから、すさまじい破壊音がたて続けに響きはじめた。 (ああ……ああ……)なす術《すべ》もなく、雷は爆発煙のただよう庭園の一角に座り込んでしまった。  思いもよらぬ、最悪の事態が生起してしまったのだ。  そしてそれは、かつての同じ居留民の娘、結の仕業だった。 〈おい! おい! 悪かった、だますつもりはなかったんだ……一体、どうしたんだ!……お願いだ! 今度こそ言うことは、何でも聞く……頼むから、あの君の友人をとめてくれ! 頼む、助けてくれ!〉  庭園の上方で、�声�がわめきはじめた。 〈……なあ、君……なんとか、あの怪物を……いや、君の勇敢な友人をなだめてくれ! 頼む……このままでは、このままでは……〉 「もう、遅い」雷は無表情な声でつぶやいた。 「奴は、ヴィダルは死んでしまった……うらみを晴らす前に、彼は死んじまったんだ……しかも、女の不意打ちで……」 〈死んだ!? どういうことだ、じゃあ、あの暴れまくっている怪物は一体誰なんだ!?〉  声が強い不安で震えている。 「あの怪物を制御していたヴィダルの脳が破壊されたんだ。つまり、怪物は、ただの怪物になってしまったのさ。もう誰にも、奴を止めることはできない……奴の肉体が完全に破壊されるか、さもなくば戦闘コンピュータが働きをやめるまで、奴は電子回路の本能にしたがって、いつまでも闘い続けるんだ……」  かなたから伝わってくるすさまじい破壊音は、急速に遠のいてゆく。  怪物は眼前のあらゆる敵を屠《ほふ》りながら、ただただ進撃を続けているのだろう。 〈……た、たすけてくれ! 奴と闘えるのは君しかいない!……頼む、このままでは、なにもかもが破壊されてしまう。破滅だ! 月が破滅する!〉 �声�は発狂したかと思えるほどの甲高い声でわめき続けている。〈……頼む、我々を救えるのは、君だけだ。あの怪物を、退治してくれ。頼む、君の要求は何でも聞く! いや、君をこの天界の王として、遇しよう! 頼む、助けてくれ!〉  それを聞きながら、雷はむっくりと立ち上がった。  残り少なくなった体内の力筒《チユーブ》八番を、バック・パックからとり出した新しいものと交換する。 〈……そ、そうか! 奴もエネルギーの切れる時がくるのか! そうすれば、奴は停止するんだな!?〉  そのようすを見ていたらしい�声�が、すかさず雷に問いかけた。 「あきらめるんだな。奴は最強の戦闘ロボットだぜ。力筒の残量など、自動的に調整できる。次々に、新しいチューブと交換しながら闘い続けるだろう。そのスキを、おまえたちが突けるか、どうかだが、もう奴は人間じゃない。スキを見せる要因がない。予備の力筒を奴が使い果たすのは、地球の時間で二週間以上も先のことだ。それまで、おまえたちが持ちこたえられるかな?」  雷は冷たく言いはなった。 〈……た、たすけてくれ——っ!……〉声が、狂ったように絶叫した。〈た、たのむ……たすけてくれ! たすけてくれ——っ……〉  声が途切《とぎ》れた。  雷はバック・パックを再び背負うと歩き出した。  そこここに、地獄のような破壊の跡が残されている。それをゆっくりと追いながら、雷は進んでいった。  戦闘ロボットは手あたり次第の武器を全《すべ》て使いつぶしながら進撃しているようだ。もちろん、彼のボディそれ自体からして、狂暴極まりない最悪の兵器なのだ。  あちこちに、地球人や月人の引き裂かれた肉塊が散乱している。  それを縫って、雷は進んだ。 �声�はもう彼の後を追ってこない。  その時だ。  庭園の植え込みの背後から、急に、小さな影が跳び出してきた。 「雷! 助けて、雷!」  小美だ! 小美が髪を振り乱して、雷にむしゃぶりついてくる。 「雷あたしよ、小美よ! 助けて、雷」  駆け寄ってくる彼女をあやうくひねりつぶしそうになりながら、雷はようやくのことで、戦闘コンピュータの自動|反応《はんのう》を制御した。  しかし、今となっては、小美の姿を見ても雷の心は冷えきったままだ。  彼は無言で、足元にひれ伏した小美を見下した。 「ああ、雷、お願い、あたしを助けて。あたしも結と同じように、爆弾を渡されていたわ。言うことをきかなければ、居留地を滅亡させると脅されたの。それだけじゃない、もし、うまく、あなたを仕とめたら、あたしたちの赤ちゃんを生きたまま返してやる、と言われたのよ。でも……でも、あたしは爆弾を投げられなかった……どうしても……」  小美は雷の足にしがみついたまま泣きくずれた。 「赤ちゃん、だと? それは何だ!? おまえ、いったい、誰の子を生んだんだ?」  小美の思いがけない言葉に、雷は思わず訊き返した。 「誰の子ですって? まあ、なんてことを!? あなたの子供よ、あなたの娘よ!」  小美が叫んだ。 「馬鹿《ばか》なことを言うな。そんなにまでして、自分だけ助かりたいのか」  雷は突き離すように言う。 「あなた、あなたは知らないのよ。あたし、この月の世界へ運ばれる前に、もう、あなたの子供を身ごもっていたのよ!? あたし、あなたにそれを告げるヒマがなかった。でも、本当よ。あたしは母親になったのよ。信じて、あなたの娘が、この王宮にいるのよ!」  小美が必死で叫び続ける。 「それよりも、それよりも、聞いてちょうだい、雷……この月の世界は楽園なんかじゃない、地獄よ! この世の地獄よ! 天帝たちは、地球から運んだ女たちに次々と子供を生ませ、そして、その肉を食うのよ! あたしがここへやってきたのは今から八か月前……だから、子供を生んだのはあたしが最初だった……あなたの子供よ、まちがいないわ! その赤ちゃんを、もうやつらは連れていってしまった。近いうちに、やつらの食卓にのせるために!」 「八か月前……」  雷の生身の頭脳が、混乱しながらも、小美の言いたてることの真実性を嗅《か》ぎとりはじめた。 (そうだ……小美が子供を産んだというのが本当なら、それは少なくとも、この月の世界で身ごもったんじゃない……そうだ、それが本当なら、子供は、俺の!) 「小美、子供は、俺たちの子供は、今どこにいる?」  雷は言いながら、子猫でも抱き上げるように小美を片腕にのせた。 「あなた……」  小美の顔が見違えるような輝きを帯びた。 「天帝よ! 彼とその側近たちが知っているはずだわ! 食料庫、子供たちはそう呼ばれている保育室に移されてしまった。その場所は、彼等と料理人だけの秘密なの!」  小美は小さなこぶしで雷の胸を打ちながら叫んだ。 「急いで、雷! あたしたちの子供が、あの悪魔のえじきにならないうちに! お願い!」 「で、その天帝はどこにいるんだ? この王宮の、どこに隠れていやがるんだ!」  雷は吼えた。 「わからない……でも、さっきの�声�……あれはきっと、≪地下宮≫の聴問室から送られてきたものだと思うわ」 「聴問室?」 「そうよ。天帝たちはそこで、この天界のすべてを監視している……そして、少しでも不穏な光景を目撃したり、不敬な発言を耳にしたりすると、すぐに天使の拉致隊《らちたい》をさしむけてくるのよ。そこにいれば、この世界のすべての場所を、手にとるように見聞きできるんですって……あたしは、そんな噂《うわさ》を耳にしたことがある」  小美が言った。 「よし、とにかく、そこを探しだしてやる!」  言うが早いか、雷は走り出した。  片腕に抱かれた小美は、慌てて雷の首にしがみつく。 「いいか、小美、しっかりつかまっているんだぞ。俺が思うには、奴等はまだ、その聴問室とやらに隠れているはずだ。なにしろ地上では、俺の仲間だった怪物が、目的もなく、ただただ破壊のために荒れ狂っている。奴等だって、おいそれとはその隠れ家を動けないはずだ。今のうちだ! 今のうちに、奴等の根城に踏み込まなくては……」  言いながら、雷はたちまち、庭園を覆っているドームの端までやってきた。  その壁に、信じがたいほど巨大な穴がうがたれているのが見える。  もはや戦いの本能しか残っていないヴィダルの抜けがらが、すさまじい力で突破していった跡に違いない。  そしてその穴の向こうには、迷宮の一部なのであろう、屈折し、錯綜した光の乱舞がかいま見えた。  しかし、今の雷は、その外部へと向かうルートは関係がない。  敵は、この王宮の中心、その地下に潜んでいるに違いないからだ。  雷は首を左右にめぐらしながら、あたりの様子をうかがった。  電子眼が、光学的情報のみならず、周囲の湿度分布、温度や大気組成の濃淡、風向やその強さまでも瞬時に読みとってゆく。  と、その�目�が、しげみの後に巧みに隠された何かの設備を発見した。 「あれは!」  雷は一挙動で大地を蹴り、その場所に舞い降りる。  立ちはだかる巨木を、手刀の一撃でへし折ると、その背後をのぞき込んだ。  それは直径が一メートル半ほど、筒のように庭園の土の中から突出している物体だ。  上部は重い鋼鉄の蓋《ふた》で覆われている。  しかし、雷の怪力は、軽々とそれを取り払った。  するとその下には井戸を思わせる穴が、黒々と地下に向かって続いている。 「通風孔……湿った空気の吹き出してくるのが視える……」  雷は言った。 「見える、ですって?」  小美が不審そうに雷の目をのぞきこんだ。  その顔には、やはり怪物に向けられる恐怖と憎悪の入りまじった表情が浮かんでいた。  微《かす》かに震えている小美の肩を、雷は指先で軽く叩いてやった。 「ああ……今の俺の目は、人間には見えないものまでも�視る�ことができるんだ。いいんだ……おまえが俺を怖れるのは当然のことだ。俺は確かに怪物だ。それでも、こんな姿になってまでも、俺はおまえのことが忘れられなかった。そして、おまえを奪っていった奴等を許せなかった……しかし、もういいんだ。これは俺の勝手な気持ちだ。今の俺は、おまえに愛や好意を期待する資格などないんだ。それは、よく知っている……」  雷は自嘲的《じちようてき》な口調で、そう小美にささやいた。 「あなた、そんな……そんなひどい言い方をしないで!」  なおも言いつのろうとする小美を、雷は優しく制した。 「いや、いい。もう、よしてくれ。俺は、おまえの子供を救い出しに行く。できれば、下界民たちのために、LN素子と力筒の秘密も奪い取ってくる」 「その赤ちゃんは、あたしの子供、そしてあなたの子供なのよ」  小美は悲しそうにつけ加えた。 「ああ……分ってる、とにかく、俺はここから地下にとびこむ。穴の行き先がどこであれ、ともかく、天帝の居場所に少しでも近づけるのは確かだろう……」  雷は言いながら、穴をのぞきこんだ。  そして軽く円筒のふちを叩き、その反響で、空洞の形態を分析する。  穴は一気に十メートルほど地下に落ち込み、それからゆるいカーブを描いて庭園中央部の直下へとのびているようだ。 「よし、行くぞ、小美」雷は言った。「おまえをここに残していきたいが。なにしろこのあたりは危険だ。あの怪物が、いつまた、こっちへもどってこないともかぎらない。だから、俺はおまえを連れてゆく、いいな?」  雷に応えて、小美はこくりとうなずいた。 「ええ、もちろんよ。それに、赤ちゃんを見つけだした時、あたしがいなければ、自分の子供かどうか見分けられないでしょう? もちろんよ、あなたが嫌だと言っても、あたしはどこまでもあなたについてゆく!」  小美はきっぱりと雷に言った。  雷はふと、小美の視線を避けるように首をめぐらした。  はるか遠くから、高くなり、低くなりして爆発音や破壊音が伝わってくる。  しかしそれは再び、王宮の中心部へと近づいてくるようにも思われた。 (……そうだ、今の俺に、余計なことを考える時間はない。俺は何も考えず、ただ、やるしかないんだ……)  覚悟は決まった。  雷はかけ声とともに、その通風孔へと身を躍らせた。  13 地下宮襲撃  小美を両手でかばっているために、雷の行動はかなり制限されたものになっている。  しかし、彼は、背中や臀部《でんぶ》、両方の足を巧みにつかって、その穴を滑り降りていった。  空洞の壁面との摩擦で、接触部は高熱を帯び、時には火花すら散る。  しかし、完璧《かんぺき》な断熱材のおかげで、雷の内部機構は、なんの影響も受けてはいない。  二秒、三秒……低重力のために、距離の割には降下速度が上がらない。  雷にとってははがゆいほどのスピードだ。  しかし、生身の小美は、落下の感覚だけでもう縮み上がり、目をぎゅっと閉じて、ようやくのことで恐慌状態を免れている。  雷はそんな小美をさらに強くかかえこみ、うねうねと続く通風孔を滑り落ちていった。  するとやがて、闇の先に、行きどまりの壁が見えてくる。  それは壁というよりも、空気を浄化するためのフィルター装置らしい。  雷は衝突に備えて全身をばねのようにたわませた。  そして接触の直前、両足を思いきり蹴り出して、フィルターを突き破る。  二人はそのまま空中にとびだした。  と、次の瞬間、彼等は激しい水音とともに水中に突っ込んでいた。 「雷——っ!」  水を呑《の》み込んでしまったらしい小美が、激しくむせかえりながら絶叫する。 「大丈夫だ、小美。タンクの中へ落ちただけだ。どうも、ここは、庭園の環境調整室か何からしい……」  雷は小美を水面高く差し上げながら、その水槽の底を歩いて進み、やがて行きあたったタンクの側面を蹴りつけた。  それはまるで紙かなにかのように破れ、水槽の液体は奔流となってそこから吹き出してゆく。  雷はさらにその穴を広げ、そして小美を抱いたまま水びたしの床に降り立った。  やはり思った通り、そこは機械室になっている。  人影はない。  雷は小美を床に降ろした。 「いいか、ここからは盲めっぽう進むしかない。俺の後を離れるな。危険になったら、俺を楯《たて》にするんだ。大丈夫だ。俺は、この世界で最強の戦士だ。敵に指一本さわらせやしない。ついてくるんだ」  雷は言って、ゆっくりと歩きだした。  腰の弾倉帯から、唯一手元に残った超硬材の戦闘ナイフを抜く。  機械室は、さらに暗い通路へとつながっていた。  タンクから吹き出した水が、もうそこまで流れ出している。  雷は水流にしたがって、さらに地下へと進んでいった。  突然、気配を感じて立ちどまる。  無言のまま小美にも合図を送り、雷は通路の壁に身を寄せた。  と同時に、数歩先のドアが開き、数人の人影がとび出してきた。 「こっちだ! 水はこっちから流れてくるぞ!」 「コンディショニング・ルームだ。あそこで何かが起こったんだ!」  男たちは口々に叫び交しながら、音をたてて流れる水に踏みこんできた。 「早く何とかしないと、天帝の御座所にまでこいつが流れこんでしまう。さあ、行け、行くんだ!」  リーダーと思われる男が背後から怒鳴っている。  彼等はなおも激しく流れてくる水に気をとられて、壁にぴったりと貼《は》りついている雷にまだ気づかない。 「ええい、くそ。こんな時に、なんでまたつまらん事故が起きるんだ。外では化物が暴れまくっているというのに……」  作業員たちを押しのけて前に出てきたリーダーが、手にした大型のハンド・ライトのスイッチを入れた。  と、そのまま、彼等は凍りついた。  ライトの光の輪に、すさまじい黒い巨体が、浮かび上がったからだ。  雷は威嚇するように、ゆっくりと動いた。  彼の戦闘用ナイフが、凶暴にぎらりと光を反射した。 「ひいっ……」  作業員のひとりが声を上げた。  ハンド・ライトが、ばちゃん! と音を立てて、床を流れる水の上に落ちる。  それが合図ででもあるかのように、彼等は我に返った。  いっせいに背中を見せ、半ば這《は》うような格好で逃走にうつる。  しかし、遅かった。  その瞬間、雷の身体はすでに床を蹴って宙を飛んでいたのだ。  着地しざま、雷はまず、先頭の男の首をナイフで横にはらった。  彼の頭部は苦痛の表情を浮かべる間もなく持ち主の肩から離れ、水びたしの床に転げ落ちる。 「天帝はどこにいる? 最初に教えた奴だけは生かしておいてやる」  雷は容赦のない声でそう言うと、手近かの一人を理由もなくつまみあげ、壁に叩《たた》きつけた。  男の身体《からだ》は、まるで破裂したかのように平たくつぶれ、壁にいったん貼りついてから、ずるずると血とともにはがれ落ちてきた。  見守る一団は、これで完全に抵抗が無駄だと悟ったらしい。 「いいます、天帝は、もう二階層下の……」 「この野郎、わしが言うんだ! 天帝は、聴問室の御座所!」 「待て、待ってください! わたしが、わたしが御案内します。その先のシャフトを使わなくては下の階層へは降りられません。シャフトのキイは、ほら、このとおり、わたしが……」  立ちはだかる死神の恐怖が、すっかり彼等の理性を拭《ぬぐ》い去ってしまっていた。  彼等は、昇降用シャフトのキイを奪い合い、なんとか自分だけは助かろうと、みにくい争いを展開しはじめたのだ。 「もういい! それだけ聞けばたくさんだ」  雷は吐き出すようにいい、ナイフをかざしてその一団の中に割って入る。  一瞬のうちに、全員をずたずたに切り刻んだ。 「……シャ、シャフトの……キイ……」  死の痙攣《けいれん》にとらわれながらも、リーダーらしい男はなおも銀色のマグネット・キイを雷に差し出し、命乞いをする。  その男をつま先で蹴り殺して、雷は壁に背中を押しつけたまま震え続ける小美に手をのばした。 「……ひ、ひどい……でも……でも、あたし……いつも夢に見ていた……こんな風にむごたらしく、月人たちが殺されてしまえばいいと、あたし、いつも夢に見ていた……ああ……」  小美の瞳は、闇の中で異様な光を放っている。  小美はおびえ、怖れながらも、この復讐に強い快感を覚えているらしかった。 「……当然よ……人間の子供を食うような奴等の手先は、こうなって当然よ……ああ、なんてこと……」  すっかり血の臭いに酔っぱらったような口調の小美を無理矢理かかえ上げ、雷は彼等が出てきた扉を抜けた。  そこは小さなホールになっていて、その横手に、昇降用シャフトが見える。 「雷……キイは? さっきのキイは?」  小美が修羅場《しゆらば》と化した通路を振り返りながら訊《き》く。 「いいんだ。こんなもので下へ降りれば、待ち伏せされて、集中射撃を浴びせられないとも限らない。俺には、こんなものは必要じゃない」  雷は言うと、小美を背中にのせ、バック・パックのベルトを解いて、彼女をそこへゆわえつける。 「ベルトから手を離すな! つかまっているんだ」  小美を子供のように担ぐと、雷はすっと姿勢をかがめ、床に片ひざをつく。  そして、無造作に右腕を床に向かって振り降ろした。  それは、硬い岩板で組まれた床を軽々と突き破る。  二度、三度……ついに、床下の構造材や配線、配管が露出してくる。  雷はなおも、自分のこぶしをハンマーのようにふるって床を打ち続けた。  ついに、そこが破れる。  そして、下層の天井にあたる鉄の板がぐしゃりとめくれて穴があく。  雷はすぐさま足で穴を蹴り広げ、そして下の階層へと勢いをつけて跳び降る。  そこも同じようなホールだ。  人のいた気配はあるが、バラバラと崩れ落ちてきた天井に驚いて逃げ出した後のようだ。  その床に足がつくやいなや、雷はまたもや床に右腕を突き立てた。  さっきと同じように、このホールの床、即《すなわち》ち、下の階にとっての天井をぶち破ろうというのだ。  たちまち、そこにも大きな穴がうがたれてゆく。 「雷! あなた! 急いで、もう、天帝は気づいているわ! 奴等が逃げないうちに早く!」  雷の復讐の魂がいつの間にか乗り移ったかのように、背中では小美が声をかぎりに叫んでいる。  と、ついに、床全体が、大きくひび割れ、下の階へ向けて崩落をはじめる。  雷はいったんそこから跳ね上がり、空中で体勢を立て直しながら、落下した床の上に着地した。  と、そこは悲鳴の渦だ。  見れば、落ちてきた天井材の下敷きになった月界の戦闘員、すなわち天使が十数人、死にきれずに呻《うめ》いている。  やはり、階上の異変に気づいた彼等は、雷をシャフト・ホールで待ち伏せていたのだ。  雷は怪力をふるって、そのなかのひとりを岩塊の下からつかみ出す。  ついでに、あたりに散乱している武器のなかから無傷と見える力線銃《パワー・ライフル》一丁を選んで引き寄せる。  雷は苦痛のあまり、もがき、のたうつ男に力線銃の銃口を向けた。 「これ以上苦しみたくなかったら正直に言うんだ。天帝はどこにいる。どっちへ行けば、奴に会える」  雷は言って、軽く銃の引金を絞った。  シュッ! と青白い光線がのび、男の右手首を鎧《アーマー》ごと切断する。 「や、やめてくれ!」男は絶叫した。「お、おまえは何だ!? 何者だ!」  雷はそれに答えず、無言のまま、また引金を絞った。  今度は男の下腹部に小さな穴があき、そこから肉の焼けこげる異臭が立ちのぼった。 「うわーっ! 殺せ、殺してくれ……天帝は、天帝はあっちだ! この先の聴問室だ!」  男は狂ったようにわめきながら、シャフトと反対側の通路を指差し、そして悶絶《もんぜつ》した。 「追いつめた……嬲《なぶ》り殺しにしてやる」  雷はぞっとするような声を声帯から絞り出すと、巨体をひるがえした。  行く手にあるドアをはじき飛ばしながら、すさまじい勢いで通路を突進する。  と、前方にばらばらと人影が湧《わ》いて出た。  天使だ!  天使の軍団が、今まで見たこともないようなごつい武器を通路に引き出そうとしている。  防御陣も必死だ。  その武器の設置を助けようとするのだろう、早くも、数人の天使が力線銃を乱射しながら、突進する雷に立ち向かってくる。 「小美、頭を下げてろ!」  雷は背中の彼女にそう叫ぶと、こちらも力線銃の引金を絞りっぱなしにしたまま敵陣に向けて跳躍した。  天使たちの放つ射線は、幾度も雷の巨体と交叉《こうさ》している。  しかし、その小口径の力線は、胴体の被膜をこがす程度のものでしかない。  雷は全く防御的動作をとらずに、ただひたすら突進した。  逆に雷の力線銃は、着実に、敵陣の前衛を叩き伏せている。  雷はさらに跳躍の歩幅をのばした。  血と、そして上階から流れ落ちる水で濡《ぬ》れた床を、雷の足は二度蹴った。  そして、彼はもう、敵の中央に躍り込んでいた。  慌てて、その巨大な武器の砲口を雷に向けようとしている射手をなぐり倒す。  そして、ぐるりと身体を一回転させるようにして、生き残りの黒い天使たちをなぎ倒す。  すべてが、ほんの二、三秒のうちに終った。  雷はエネルギーのつきた力線銃を投げすて、かわりに、彼等が雷を食いとめるために持ち出そうとしていた重力線砲らしい武器に手をのばした。  強制冷却器つきの、凶々《まがまが》しい代物だ。  口径も五十ミリはありそうだ。  移動用の車台には、砲身を回転させるためのモーターまでついている。  普通に運用する場合は、これ一門に、四、五人の要員がつくのだろう。  しかし、雷の怪力は、その砲を、まるで軽機銃のようにかかえ上げた。  邪魔になる車輪やモーターはねじりとって投げすてる。  それを腰だめに構え、雷はそのまま奥へ突き進んだ。  通路はそこからすぐに右へ折れている。  雷は片足で制動、片足でバランスをとりながら、まるで高速戦車のような轟音《ごうおん》を響かせて身体の向きを直角に変える。そのまま、さらに突進した。  と、前方に、鉄扉が見えた。  見るからに分厚そうな重々しい扉だ。  それが今しも左右から閉じて合わさろうとしている。 「そうはさせるものか!」  雷は獣のように吼えた。  またここで、閉鎖された鉄扉と格闘して時間をつぶす気にはなれない。  雷はいったん、その場で急停止すると、両腕でかかえていた重力線砲の砲口を鉄扉のすき間に向けた。その間隔はすでに、人間が通り抜けられない細さになっている。  照準も何もない。  雷はその間隙《かんげき》に向けて、たて続けに力線砲のトリガー・レバーを押した。  彼がそうした武器の操作法を心得ていたわけではない。  すべては、彼の頭部に内蔵されている戦闘コンピュータの指示だ。  腕一本ほども太さのありそうな力線が、砲口から一直線にのびていく。  一撃、二撃、三撃……それは鉄扉の間隙に吸い込まれ、その向こう側でとてつもない破壊と誘爆をひき起こしているらしい。  それでも雷は攻撃の手をゆるめない。  余りに激しい連射のために、マズル・クーラーが灼《や》けて暗赤色に発光しはじめる。  だが、ついに鉄扉の動きがとまった。  放射された力線による破壊が、防護扉を開閉する装置の一部にまで及んだのであろう。  間髪をおかず、雷はそこにとりついた。  重力線砲の砲身を扉と扉の間に無理矢理ねじこみ、それをテコにしてすき間を押し広げようとする。  どこかで鋼鉄のはじけとぶ音がする。  さらに、鉄扉を支えている超硬材のレールや壁がギシギシと軋《きし》みだす。  だが、間隙はなかなか大きくならない。  ついに、重力線砲の方が、機関部のあたりから、真っぷたつに折れ砕ける。 「ぐぐぐ……」  雷は唸《うな》り、そして今度は自分の腕をそこに差し込む。  力線砲の連射によって、扉は灼けて高熱を発している。  雷の背中にしがみついている小美が、熱気をまともに受けて苦しそうな悲鳴を洩《も》らす。  雷の腕を覆っている被膜までが、こげて煙を立てはじめた。  それでも彼は、扉から手を離さない。  ありったけのエネルギーを二本の腕に集め、それを少しずつ押し開けてゆく。  人工筋肉の束が、緊急動作のエネルギーを注入されて信じがたいほどにたわみ、ふくれ上がる。  すると扉を支える機構部で、にわかに激しい破裂音が連続した。  雷の筋肉組織も、すでに限界に近づき、疲労に負けた素材が切断されかかっている。  そのことを、戦闘コンピュータが激しく警告しはじめた。  それでも雷は、こめた力をゆるめない。 「ぐわあっ!」  彼の声帯が、また意味のない咆吼をはり上げた。  その瞬間、ついに鉄扉は雷の狂暴な憎悪の前に降服した。  一段とすさまじい破砕音を響かせると、二枚の鉄扉は全く抵抗を失って左右にずるずると滑りはじめたのだ。  逆動防止の油圧部が、余りの圧迫に負けて自壊したのだろう。 「ぐわわああっ!」  雷は叫び、そして黒い雷のようにそこをくぐり抜けた。  あたりは一面、炎と煙だ。  小美には耐えがたい息苦しさにちがいない。彼女が激しくせきこみはじめる。 「もうすぐだ、がんばるんだ!」  雷は、彼女に短く声をかけ、そこを一瞬で駆け抜ける。  あちこちに倒れている鎧姿の天使や月人たちを蹴散《けち》らしながら、なおも奥へと突進する。  ようやく煙が薄れてきた。するとそこに、豪華な木製の扉が見える。 (ここだな!)  雷はスピードもゆるめず、そのまま扉に体当りする。  浮き彫りをほどこされた重厚な木部は、雷の一撃で、あっけなく砕けとぶ。  と——、  そこは、まさに天帝の御座所と呼ばれるべき部屋《へや》にちがいなかった。  信じがたい光景だ。  床は一面、雷の巨体が沈み込んでしまいそうなほどに柔らかな毛足の長い絨氈《じゆうたん》で覆われている。  壁や天井には、地球から運んできた木材が貼りめぐらされている。そして、さまざまな宝石や貴石を散りばめたシャンデリアが、この世のものとも思われぬ豪奢《ごうしや》な光をあたりに投げかけていた。  一瞬、雷は、自分の視覚装置を疑った。  血と熱と煙が渦巻く背後の戦場が、夢だったのではないかとさえ思われる。  しかし、彼の全身から立ちのぼる戦闘の臭いは消えていない。  また、彼の被膜に刻まれた数限りない裂条、そして、その背中ですすり泣き続けている小美の存在もまぎれもなかった。  雷はゆっくりと頭を正面に向けて据えた。  そこに、人影があった。  一人のやせこけた老人と、それを取り囲む十人ほどの男女、そして、さらにその周囲を、黒い鎧をまとい、完全武装した天使たちが固めている。  老人は、まばゆいばかりの銀色のシートに深く腰を沈めている。 〈来たな……〉  老人の口が動いた。  それが�声�となって、部屋中に鳴り響いた。 (…………!)  雷の戦闘コンピュータは、たちまちにしてその音源をつきとめる。 �声�は、部屋の四方からスピーカーを通じて流れ出しているもののようだ。  しかし、同時に聞こえてくるはずの、老人自身の肉声が感知できない。 (おかしい……彼等は幻影なのか………)  雷の電子眼が、めまぐるしくフィルターを変える。  すると、視えた。  巧みな間接照明によって擬装されてはいるが、透明な半球型のカプセルが、老人とその取り巻きをすっぽりと覆っているではないか。  つまり彼等《かれら》はそれによって雷と隔てられているのだ。 「でてこい……」  雷が獰猛《どうもう》な唸《うな》り声に近い口調で言った。 「さもなければ、そのカラをぶち破って引きずり出すぞ!」  雷は叫んだ。 〈待ちなさい、君……そう、ライとかいったね……君の名は、その女とのやりとりの際に盗み聞きさせてもらったよ〉 �声�が言った。 〈さて、雷……君はそれ以上、我々に近づかないほうがいい。というのはだ、このカプセルは、実は緊急脱出用の移動器なのだ。君が近づけば、このカプセルは自動的に脱出態勢に入って、この地下から月面上まで飛び出してしまう仕掛けになっている。そうなるとまた、君は我々を追いかけて、無駄な破壊を繰り返さねばならぬことになる〉 「そんな便利なものに入っているのなら、なぜ、すぐに脱出しない!? もっとも、どこへ逃げようと、俺はおまえたちを追い回し続けるだけだ。それに、月面へ出れば、俺の仲間が暴れ狂っている。あいつは俺と違ってコントロールなしだ。敵と見れば手あたり次第に叩きつぶす。しかも、あいつの行動は予測がつかない。あの怪物の待っている地上へでも、早く逃げてみせたらどうだ」  雷は言った。喋《しやべ》りながら、カプセル下部の脱出装置を破壊するスキを狙《すき》う。 〈そう……君の言う通り、あの怪物が問題なのだ。あれが、庭園の監視装置をメチャクチャにしてくれたおかげで、我々は途中で君の行方を見失い、話しあいのきっかけを掴《つか》めなくなってしまっていた。しかし、今、君はここにいる……最愛の妻とともにな……〉 「話し合い、だと!?」  雷がいきりたった。  カプセル中央のシートに腰を下ろしたまま、老人はゆったりと手を振った。  すると、かたわらに立つ男のひとりが、そのシートの背後から、大きなバスケットのようなものを運び出してきた。  そして、それを雷の方へ差し出して示しながら、上の覆いをのけた。 「あっ! 美名《ミナ》だわ、あたしの子供!」  雷の背で、小美が絶叫した。 「雷、あの子よ、あの子が、あなたとあたしの子供よ!」 〈……そうだ、これは、その女が生んだ子供だ。女は、この月の世界へやってきた時すでに腹に子種を宿していた。……なるほど……やはり、そういうことだったのか……〉  老人は言って、思わず片足を踏み出しそうになる雷を制した。 〈近づくな、と言ったはずだ。もう一歩近づけば、脱出装置が作動をはじめてしまう。まだ、君とここで別れるわけにはいかん。かといって、装置を解除したのでは、殺してくれと言わんばかりだからな……〉  老人は奇妙な笑い声を洩らした。 「おまえが、天帝だな……」  雷は顔面のマスクを歪《ゆが》めながら言った。 「……天帝と聞いて、俺《おれ》はもっと堂々たる人物を予想していた。こんな貧弱な老いぼれを、この世界の人間はあがめたてまつっているわけか……」  雷の全身の筋肉が、彼の抑圧された攻撃信号のためにすさまじく怒張した。 〈何とでも思うがいい。だが今は、お互い憎悪をぶつけあう時ではない。我々はここで、君と話し合いたいと思っているのだ……〉 「…………」  雷は無言のまま、天帝とその側近たちをにらみつけた。 〈……いいかね、ライ……我々にとっても、君にとっても、今は瀬戸際だ。地表では、手のつけられん怪物が、暴れまわっている。そして、君は、ここで我々と対峙《たいじ》している。このままただ時が過ぎれば、いずれ、あの怪物は、天界の中枢施設をまで破壊にかかることだろう。そうなったら、全ては終りだ。天界を覆っているバリヤーが消えれば、その瞬間に、この世界は死に絶える。もちろん、君の妻も、そしてこの子供も運命は同じだ。そして、天上の楽園は、また死の衛星へと還《かえ》るのだ……〉  天帝は、言葉を切ると、側近のひとりが持つバスケットに手をかけた。 〈……さあ、そこで、だ。我々は、どんなことであろうと君の望みをかなえる決意を固めておる。そこにいる妻も、そして、この赤ん坊も君に渡そう。そして、君がもし望むなら、この天界に残り、君の思うがままに暮らせばよかろう……〉 「そのかわり、俺に、ヴィダルを破壊しろというのだな?」  雷がゆっくりと言った。 〈ヴィダル? あの怪物の名はヴィダルというのか……待てよ、ヴィダル……ヴィダル……聞いたことのある名だ……〉  天帝が、わずかに眉《まゆ》を寄せた。 「そうさ、知っているはずだ。彼は、おまえが下界へ追放した親衛隊長ヴィダル・ガルタだ。もっとも、今、外で暴れている怪物は彼じゃない。彼は、おまえたちが仕かけた小細工のために死んでしまった……分るだろう、おまえたちが女に渡した爆弾が、本物の彼を殺し、そして最も狂暴な戦闘コンピュータに支配されるだけのロボットを生みだしてしまったんだ! 自業自得だ。あの怪物には、ヴィダルの怨念《おんねん》が乗り移っているんだ!」  雷は怒鳴り返した。 〈悪かった……しかし、我々も、君たちがいったい何者なのか、そして何が望みなのか、まるで見当がつかなかった。ああでもする以外に、対抗処置を見つけられなかったのだ〉  天帝が慌てて言い訳した。 〈……だが、だが、今は違う。我々は話しあえる。お互いに与えあい、力を合わせるべきだ。我が方には、全てを与える用意がある。だから君も、その最強の戦闘力を我々に貸してくれ〉 「その子供は人質というわけか……」 〈そうじゃない。だが、我々にも切札は必要だ。それでなくとも、君は余りにも強力すぎる戦士だ。つまり、我々は絶対に約束を守らねばならない立場にいるわけだ。信じてくれ、我々の誠意を……〉  天帝は、しなびたこぶしを振り回しながら言った。 「誠意、か……」  雷は、背中で震え続けている小美を、ゆっくりと床に降ろしながらつぶやいた。 「……まあ、いいだろう。だが、その前に、俺の要求を全部聞くんだ。もちろん、この小美と、子供はもらいうける。それと、LN素子だ。素子の見本、それに力筒生産に必要な、エネルギー変換=蓄積に関する全ての資料、マニュアルをこっちへ渡してもらう。俺は、それを持って、下界、いや、地球へ帰る」  雷は二本の腕を腰にあて、はっきり、ひとことひとこと、突きつけるように言った。 〈やはり……地球へ、LN素子の秘密を持ち帰るというのか……まあ、それもよかろう。君たちがウラジミルとカラによって作られた戦士だと分った時から、すでに我々は、その要求を予想しておった。だから、ここにこうして、全ての資料をそろえてはある……〉  天帝は、片腕を上げ、また側近たちに合図を送った。  すると、そのうちの二人が、銀色のケースをシートの後から持ち出し、蓋を開いて、雷の方へかざした。  そこには、虹色に光る結晶体、それに、大部な設計資料が、きちんと整理されて収められている。  コンピュータが、雷の視力をズームにして、それらがニセモノでないかどうかを確認する。  素子の結晶体、それに見えるかぎりの記述は、どうやらその一式が、まぎれもないLN素子と力筒に関する資料集であるらしいことを示している。 「ガラスの破片と、ただの紙切れで俺をだますつもりか!?」  雷は一応、それに対して疑いの言葉を投げつけてみた。 〈何ということを……そんな子供だましをやっている余裕など我々にはないんだ、分ってくれ。信じてくれ。我々は全てを君に渡すつもりだ。君の望むがままに、だ。だから、頼む。取り返しのつかないことになる前に、あの怪物を、何とか食いとめてくれ。破滅を阻止できるのは、今や君しかいないんだ!〉 「まあ、いい……だが、しかし、おまえたちが、それほど俺の力を借りたいと思っていたのなら、なぜ、あの鉄扉を閉じて俺の進路をふさごうとしたんだ? 黙って俺をここまで案内すればよかったものを?」  どうしても彼等を信じきれない雷は、なおもしつこく問いただす。 〈それは仕方のないことだ。なぜなら、我々は君の姿を見失っていた。いつかは君が、我々を探し出しにやってくると思っていたが、それがいつになるかは分らなかった。侵入者が君かどうか、我々には判断できなかったのだ。いいかね、今やこの世界では、あちこちで反乱騒ぎが持ち上がっている。我々は、反乱軍からも身を守らねばならない立場なのだ。……だが、我々は君を待っていた。本当だ、天使たちの防御などはじきとばしてここまでやってくる君を待っていたんだ! 資料も、そして、その女の子供も、君が関心を持ちそうな、全ての条件を用意して待っていたのだ。信じてくれ!〉  天帝はシミの浮いた額に大量の汗を浮かべながら力説する。 「……そうか、反乱が起こっているのか……」  雷は腰に腕をあてたまま、そうつぶやく。  しかし、その指は、さっきからじりじりと戦闘用ナイフの柄にかかってきている。 〈さあ、お願いだ、ライ! 君には、全てを渡す。この月の世界ごと、君にそっくり渡してもいい。君は今日から天界の王だ! あんなウラジミルやカラの扇動を真に受けて、下界へなどもどることもないんだ。天界の王となって、この世のあらゆる快楽をむさぼることもできるのだ。頼む、あの怪物を破壊し、そして、愚かな反抗者どもを鎮圧してくれ。そうすれば、この世界は君のものだ!〉  天帝がわめくように言いつのった。 「この世の快楽だと!? 俺にとって、そんなものは存在しない。俺のこの身体を見ろ! 俺にできることは、ただ闘うことだけだ! そして俺にとって、唯一残された快楽、それは、ただ復讐だけだ!」  雷が叫んだ。  そして目にもとまらぬ早さで、雷の右腕が動いた。  その指先から、電光と化したナイフが、天帝たちのこもるカプセルの基部めがけて一直線に放たれたのだ。  14 死滅の時  と同時に、雷も宙に跳ぶ。  その時、天帝の一味を収納している緊急脱出装置のセンサーは、早くも危険を察知して作動を開始していた。  カプセルの真上にあたる天井が一瞬で横にスライドし、そこにミサイルの発射孔を思わせるトンネルが出現する。  カプセル自体も、圧縮空気とロケット噴射によって、はじかれたように床から上昇しはじめた。  しかし、そこへ、雷の投げたナイフが到達した。  彼の全体重、全エネルギーが集中した一投である。  ナイフは、瞬間的に音速の十倍を超える速度を与えられていた。  それが、カプセルの基部に命中した。  もし、その物体が流線形であったなら、それはあっさりとそこを貫通して飛び去ったにちがいない。  しかし、投ぜられたのは、ブレードと柄、それにツバを持つ、ごつい格好のナイフだ。  それは、カプセルに横ざまにぶち当った。  そしてその瞬間、速度エネルギーが破壊エネルギーに変換した。  ナイフは、まるで小型の核弾頭のように見せかけの大爆発を起こし、カプセルの基部にある推進装置の半分以上をこなごなに吹きとばした。  上昇途中のカプセルはガクリと傾く。  そしてそのまま、脱出孔のふちに激突した。  そこへ、雷が襲いかかった。  比類ない戦闘コンピュータの判断に全《すべ》てをまかせ、雷はただ目標を設定するだけだ。  雷のまっすぐにのびた両脚がカプセルの透明部分を蹴り砕く。  そのまま内部へ突入した雷の右手が、まず子供の入ったバスケットをかかえ上げ、同時に左手は資料ケースをわし掴みにしていた。  雷の目を、驚愕《きようがく》と恐怖に歪む人間の顔々がフラッシュのようにかすめた。そして、次の瞬間、それらは彼の生身の認識|閾《いき》をはるかに超えるスピードで流れ去る。  脱出孔のふちにぶち当ったカプセルが、そのまま床めがけて墜落しはじめた時、雷はすでにそこを跳び出し、茫然《ぼうぜん》と立ちすくむ小美のかたわらに着地するところだった。 「小美! ふせろ!」  叫びながら、雷は彼女をかかえこむ。  もちろん、子供を入れたバスケットも太い腕でガードする。  そして巨体をかがめて、自らの背を楯にする。  推進部を吹き飛ばされたカプセルが横転しながら床に激突した。  何事が起こったのか理解できないまま慌てふためく鎧姿の天使たちは、大半がそれに押しつぶされる。  轟音《ごうおん》と悲鳴が鋭く交錯しあった。  雷の背に、大小さまざまな破片が降りそそいでくる。  明らかに肉片と思われる血ぬられた感触のものもある。  雷はきっかり二秒だけ、その姿勢で、小美とその娘美名を守り抜いた。  そして再び行動に移る。  雷は小美にバスケットをかかえさせると、落下したカプセルの方に向き直った。  その顔面には悪鬼そのままの笑みが浮かんでいる。  雷は、むしろ緩慢とも思える動作で、生き残りの天使たちの一団へと歩み寄った。 「た、助けてくれ!」 「我々はただの兵隊だ。すべては天帝に命ぜられてやったことだ」 「頼む、許してくれ、このとおりだ!」  いかめしい邪悪な仮面の下から、たて続けに命乞いの言葉が発せられる。  彼等は後退りながら、次々に武器を雷の前に投げ出した。  ひざを屈し、頭を床にこすりつける者もいる。 「そうだ……俺たちは、いつも、そういう姿勢を強要されてきた。天帝とおまえたちへの忠誠の証《あか》しとしてな……」  雷の声が硬ばった。  天使たちを見下ろす雷の電子眼が、不気味な光を帯びてきた。 「いつでも……いつでも、俺たちは、おまえたちに、そうやってひざまずいてきた。おまえたちが命ずるままに、おまえたちの望むままにふるまってきた。そして、そのあげくがどうなったと思う。え?……」  雷はつぶやきながら、天使のひとりの首根っこをつかまえて無理矢理に床から立ち上がらせた。  そして、その鎧の腰に吊《つ》られている電撃棒をむしり取り、パワー・ボタンを押す。  黒色の棒が、たちまち高電流を帯び、バチバチと青白い電光を飛ばしはじめた。 「……そうだ、おまえたちは、そんな俺から妻を取り上げようとした。そればかりか、この電撃棒で、俺の左腕を切り落としたんだ!」  雷がフル・パワーの電撃棒を振り下ろした。 「ぎゃっ!」  その一撃で、天使の一本の腕が床の絨氈に落ちた。 「……そうさ……つぐないをさせてやる! 俺の苦しみの何十分の一かを味わうがいい……」  雷は大またで、逃げまどう天使の一団を追い回しながら、彼等をひとりひとり血祭りに上げていった。  手あたり次第に彼等をひっとらえ、電撃棒で鎧ごと突き、切り裂いていく。  それは、まさに地獄の光景だった。  阿鼻叫喚《あびきようかん》の世界が現出したのだ。  最後の一人を、原型をとどめぬまでに切り刻み終えると、ようやく雷は正気に返ったかのように振り向いた。  電撃棒をへし折って壁に投げつける。  そして、部屋の中央でひしゃげている脱出用カプセルに歩み寄る。  その中から洩れてくる苦悶《くもん》の声は、なおも続いていた。  雷はそのかたわらに立ち、ひび割れた透明部を怪力で引きはがした。  するとそこから、折り重なるようにして数人の月人たちが転げ出てくる。  そのうちの幾体かはすでに死んでいる。  雷は、カプセルの割れ目に上体を突っ込み、ひとり、またひとりと天帝の側近たちをひきずり出していった。  と、ついに、天帝の姿を見つける。  老人は、頭のつぶれた女の死体の下敷きになって血にまみれていた。  それでもまだしぶとく息をしている。  雷は天帝の足を掴むと、その身体をカプセルの外へ引き出した。 「……お、おまえ……な、なんてことを……」  雷はその時はじめて天帝の肉声を聞いた。  それはスピーカーで拡大され修正された威嚇的な大音声とは似ても似つかない、弱々しいしわがれ声だ。  天帝は背中をえびのように丸め、激しくせきこんだ。そして鼻と口から血のかたまりを吹き出した。 「いいか、よく聞け……」  雷は床にしゃがみこみ、天帝の頭をひざにのせた。  そして、死を間近かにひかえていることが明らかなこの老人の耳に口を寄せて、ゆっくりと言った。 「おまえたちが俺に与えると約束したものはもらった。今度は、俺が約束を果たす番だ。できるかどうかは分らんが、なんとか、あのヴィダルだった怪物と闘ってみよう。どこまで天界の破滅を食いとめられるか、それは分らん。だが、ともかく、俺は約束を果たす」 「……お、おまえ……なら、どうして、わたしらをこんな目に会わせた?……なぜ、素直に取引に応じなかったのだ?……」  天帝を名乗る老人は、焦点のあやしくなった両方の目を見開いて、雷をにらみつけた。 「それは……」言いながら、雷はその老人の首に屈強無比な十本の指を押しあてた。「……つまり、取引と復讐《ふくしゆう》は、また別の問題だからだよ。俺にとっては、な」  雷は軽く腕に力をこめた。  ぽきり、と軽快な音をたてて、天帝の首はへし折れた。  雷は立ち上がった。  そして振り向く。 「小美、終った……」  小美は放心したように床にうずくまり、ただバスケットの中の赤ん坊だけを守る姿勢で待っている。  雷はそこへ大またでもどっていった。  LN素子と力筒に関する秘密が収められている資料ケースをとり上げ、それを背中から下ろしたバック・パックにしばりつける。  ついでに、戦闘コンピュータの指示に従い、体内の八番|力筒《チユーブ》を新しいものととりかえる。  そうしておいて、バック・パックにできた余裕に、再び小美をのせる。  子供の入ったバスケットとともにベルトでゆわえ、巨体の背にかつぎ上げる。 「さあ、行くぞ、俺にはまだ仕事が残っている。それが終ったら、すぐに地球へ帰る。いいな、それで!」  雷は言った。 「わたしは、あなたの妻よ。今も、それは変わらない……」  背に負われた小美はきっぱりと言った。  しかし、雷は、その声の陰に、隠しようのないおびえとあきらめ、そして微《かす》かな憎悪の調子を感じとっていた。  雷は歩き出した。  カプセルの残骸《ざんがい》や、月人たちの死体をまたぎ越しながら、脱出孔の真下に進む。  そして、そこから上を見上げた。  空洞は、まっすぐに地表へ向かってのびている。  射出口が、かなり小さな円にすぼまって見える。  そのパースペクティブをもとに、戦闘コンピュータが出口までの距離を算出する。  どうやら一気に跳び上がるのは無理のようだが、脱出孔のところどころに、点検、保持用と思われるくぼみが規則的についている。  それを手がかり、足がかりにしてよじ登れば、この穴から地表へ出ることは可能だろう。  シャフトや、階段の方が安全なのはもちろんだが、それを探していたのでは、どれだけ時間がかかるか分ったものではない。  雷はふと思い立って、手近かに倒れている月人の衣類を引き破り、それを背中の小美に渡す。  それで覆面をさせて、超速度の移動による風圧をしのがせるつもりだ。  その準備が終ったのを確認して、雷は床を蹴った。  まず、脱出孔の入口近くにあるくぼみにとりつく。  そして、すぐさま、今度は腕の力だけで、自分の身体を放り上げ、次のくぼみに手をかける。  その繰り返しで、ものの二秒とたたぬうちに、雷は地表に跳び出した。  そこは、どうやら迷宮の一部にあたる小ホールのようだ。  しかし、ヴィダルによって、すでに幻影装置が破壊されてしまったらしく、突入時のような光の渦は消え失せている。  ただ、幻覚をつくりだすための複雑な機械類がむき出しのまま貼りつけられた壁面の連なりがあるだけだ。  しかも、ここは天帝の非常脱出通路になっているのだから、外へと通じるラビリンス自体も極めて単純なつくりになっていた。  実際、雷は、ほとんど迷うこともなくそこを抜けてゆく。  基本的な構造は、左へ、左へと道を選べばよいだけのものだ。  それに雷が気づいた時、もう彼は迷宮を抜け、その外縁に達していた。  最後の分岐点を過ぎ数歩進んで雷は天界の空の下に出る。  そして、雷はあたりを見回した。 「まったく……なんて奴《やつ》だ……」  雷は思わず、そう口走った。  覆面の下から瞳《ひとみ》だけをのぞかせている小美も「ひっ……」と小さな悲鳴を上げる。  そこにはただ、すさまじい破壊の跡が拡《ひろ》がっていた。  楽園にふさわしく花々や木々で飾りたてられていた街路は、いたるところで見る影もなく徹底的に掘り返され、さらに、月の低重力下、夢のなかそのままに、信じがたいほど大胆なバランス感覚を保ってそびえ立っていた建築物や記念碑群も、そのほとんどが、まるで積み木細工ででもあったかのように打ち倒され、打ち砕かれている。  一片の容赦も感じられない、徹底的な殺戮《さつりく》と殲滅《せんめつ》が、そこで行なわれたのだ。  雷はその光景を前にして、一瞬ひるんだ。 (これが、カラとウラジミルの創《つく》りあげたものだったんだ……そして、俺の本質もまた、この戦闘ロボットと同じ、まぎれもない怪物なんだ……)  雷は、心がなえるのを感じながら、しかし、ゆっくりと破壊の跡を追って前進をはじめた。 (いったい、カラとウラジミルは、俺たちに何を期待したのだろう……)  歩きながら、雷はなおも考え続けた。 (……彼等は、本当に、しいたげられた下界民のためを考えて、俺たちをここに送りこんだのだろうか……その目的のために、俺たちがこれほど強力である必要があったのだろうか……)  雷個人の復讐は、存分になされた。その満足感は確かにあった。  だが、今、次々と眼前に現われてくる惨状は、そんな彼の感情を、後悔に似た気持ちでぬりつぶしかねないほどのものだった。  その時、雷の電子眼が、何かをとらえた。  それは狂ったようなスピードで左手前方からこちらへ近づいてくる。  どうやら、ホバー・クラフト・タイプの地上車らしい。  それがエア・クッションの土煙を巻き上げながら、全《すべ》て危険を無視した全速で突進してくるのだ。  それを見た瞬間に、雷は物思いから醒《さ》めた。  背中の小美に合図を送って首を縮めさせると、雷も疾走に移った。  彼の手には、小さな岩塊が握られている。  と、地上車が、雷の姿を発見したらしい。  前部を急激に持ち上げて噴流による制動をかけると、そのまま右の方向に逃れようとする。  しかし、その時すでに、雷の右腕は岩塊を地上車めがけて投げつけていた。  それは雷の手元から一直線にのびて、ホバリング・ファンの機関部にめり込む。  地上車は、一瞬、コントロールを失って荒馬のように暴れ回り、搭乗員のひとりをシートから放り出すと、そのまま建物の残骸に激突して大破した。  そこへ、雷が駆けつける。  最後まで地上車に乗っていた運転者は、衝突のショックで頭蓋骨《ずがいこつ》を砕かれ即死していたが、放り出された方の月人はまだ息がある。  雷は、その男を道路からかかえ起こした。 「おい、死ぬ前に喋ってくれ! 俺と同じような格好をした戦闘ロボットは、今、どこにいる!? 俺はこれから、そいつを破壊しにいく。教えるんだ! おまえたちを救えるのは俺しかいない。早くしないと、手遅れになるぞ」  雷は、すでに黒目が目蓋《まぶた》の後に隠れそうな月人の身体を必死でゆすりながら、その耳元で怒鳴《どな》った。 「……手、手遅れ、だと?………そうさ、もう、手遅れなんだ……」  男は、苦しい息の下から、完全にあきらめきった声をだした。 「なにっ!? どういうことだ、説明しろ!」  雷は再び怒鳴った。 「……か、怪物は、もう、中枢部に、入った……あそこがやられれば、月面を保護している力場は消える。だが……もう、やつは、その施設に、入った……終りだ……誰《だれ》も、彼もが……いま、空港に押し寄せている……終りだ……終りなんだ……終ったんだ……」  男はそう繰り返しながら、がくり、と頭を落とした。  雷はいきなり、その男の身体を投げすてた。  そして、バック・パックを背中からはずし、小美と、子供の入ったバスケットを地上に降ろす。 「小美、あの男の言ったことを聞いたな。この月の世界は、もうすぐ破滅する。それまでに、空港へ辿りつき、天界船を奪いとって、ここから脱出しなくてはならない。さあ、子供は、おまえが自分で抱け。そして、俺の腕にしがみつくんだ!」  雷は資料ケースと残りの力筒がフレームに固定してあるバック・パックを再び背負った。  そして、赤ん坊をかかえた小美を抱き上げる。  その間にも、戦闘コンピュータが現在位置を地図と照合し、最も近い空港の方角を探りあてる。  雷は走り出した。  走るというより、それはほとんど飛行と言えた。  一回の跳躍で、優に百メートル近く距離を出す。  コンピュータは、刻々と、空港までの予測所用時間を雷に知らせてくる。  十八秒……十六秒……十三秒……十二秒……  雷の腕の中では、子供に額を押しつけた小美が、必死で風圧と恐怖に耐えている。  雷は疾駆しながらも、指先をそっと動かして、そんな小美の長い髪をなぜた。  そこから、あの懐しい妻のかおりが匂《にお》いたってくるような、そんな優しい気持ちが、少しずつ雷の心の片隅によみがえりはじめていた。  ……九秒……八秒……七・二秒……  その時だ。突然、空が一瞬のうちに蒼《あお》ざめた。 (うっ!)雷は、余りにも唐突なその変貌《へんぼう》に気をとられて、危うく、前方の障害物に足を引っかけそうになる。  戦闘コンピュータの咄嗟《とつさ》の反応で、かろうじて立ち直った雷は、なおも、よろめきながら、色を一変させた天界の空を振りあおいだ。  七・三秒……七・一秒……六・九二秒……  と、はるか遠くから、雷鳴を何万倍にも拡大したような爆発音が、轟々《ごうごう》と大気と大地を震わせて鳴り響いてきたではないか。  と同時に、すさまじい強風が、あらゆる方角へ向けて荒れ狂いはじめた。それは、およそ目に入るいっさいのものを吹き上げ、吹き散らかしはじめる。  雷は再び、狂ったように走り出す。  六・二秒……五・四秒……四・三秒……  ついに、ヴィダルが、ヴィダルであった怪物が、月面の環境を保持していた力場《バリヤー》の発生装置を破壊してしまったのだ。  もはや、天界を守るものはなにもない。  月面を覆っていたまがいものの大気圏が、瞬時にして消失してゆく。 「あ……あう……」  小美が、雷の腕の中で、激しく空気をむさぼり、あえいだ。  子供をきつく抱きしめたまま、のたうつように細い身体を痙攣《けいれん》させる。 「息をとめてるんだ、小美! もうすぐだ、大丈夫だ!」  雷は叫んだ。  すでに、前方には、空港の敷地、そして天界船の姿が迫っている。  ……三・二秒……三・〇秒……二・七秒……  だが、小美にはもう、雷の言葉に応《こた》えるだけの力はなかった。 「……あい……あいしていた……雷……ほんとうに……あいしてる……」  それが小美の最後の呼気だった。  そう言い終えて、小美は新しい空気を何とか肺に吸い込もうとあがいた。  だが、その時、この世界には、彼女が呼吸すべき大気はどこにも残っていなかった。  小美は、死んだ。  彼がそれを知ったのは、戦闘コンピュータが、空港までの所有時間〇秒を告げた、その瞬間だった。  目の前に、天界船があった。  危うく難を逃れて、急角度で上昇してゆく船もあるが、大部分は地上に取り残されたままだ。  そしてその周囲には、突然の死滅に見舞われた月人たちの遺骸《いがい》が累々と横たわっていた。  どうしようもない自責の念が、雷の生身の脳髄をぎりぎりと絞め上げはじめた。 「小美、小美ーっ! 許してくれ、俺は、俺は、とりかえしのつかないことをしてしまったんだ——っ!」  小美と、そして彼女に抱かれた小さな遺体を腕に抱き、雷は絶叫した。  しかし、その声は、どれほど張り上げようと、どこにも響いてはいかなかった。  それを伝えるべき媒体が、もはや、この世界には全く残っていなかったのだ。  雷の目は、それでも涙を流すことができない。  ただ、彼の口は、いつまでも声にならない叫びを上げ続けた。  そして、蒼ざめた小美の唇に、雷は幾度も、その鋼鉄のように冷たい自分の顔を押しあてた。  大気によって柔らげられないむき出しの太陽光線が、すでに彼女とその子供の皮膚を灼きはじめていた。  しかたなしに、雷はそっとその小さな死体を地面に横たえる。そしてその上に、未《いま》だに見せかけの肥沃さを見せる天界の土を盛っていった。  小美と子供の姿がすっかり土の下に消えると、雷は破壊された巨大な石柱を探しだし、それを積んで、形ばかりの墓碑とした。  すでにあたりは、完全に無音の世界と化していた。  緑色の美しい空はとうに消えている。黒色に近い上空から、太陽がぎらぎら仮借ない光線を投げかけていた。  一瞬の内に、この天界の楽園は、白と黒、このふたつの色だけが支配する地獄と変わってしまっていた。  すべては、終った。  なにもかもが、終ったのだ。 (一体、俺は何をしたんだ!?)雷はぼんやりと思った。  急上昇する体表温度に対応しようと、全ての回路が猛《たけ》り狂ったように働いている……その軋みだけが、雷に聞こえた。  今なお、かつてヴィダルだった怪物は、破壊行為を終結させていないに違いない。  その証拠に、彼のうずくまる月の大地は、地震のような振動を続けている。  戦場は、地下へと移ったようだ。かつての植民地時代、地下に築かれた密閉基地へと逃れた月人たちを、怪物が執拗《しつよう》に追い立てているのであろう。  だが、今となっては、何もかもがどうでもよいことと思えた。  空港内では、あちこちで誘爆する力筒《チユーブ》から、花火のような火炎が舞い上がっては消えてゆく。  雷は、ふと思い出したように空を見上げた。  すると、そこに、手をのばせば届きそうな距離に、彼の故郷の天体が浮かんでいた。  すぐ、目の前に、それはあった。 (ウラジミル……カラ……あなたたちが望んだ結末は、実はこれだったんじゃないのか……)雷は心の中で、そうつぶやいた。 (……ただの、まったくの復讐だけが、望みだったんじゃないのかい……)  雷は静かに、空に浮かぶ地球から目をそらした。  彼は今、もはや帰るべき場所を完全に喪失した自分を感じていた。 (ここでこうして、故郷を眺めながらただひとり終るのもいい……それに、ここには、妻も、そして娘も眠っている……)  雷は脱出を指示する戦闘コンピュータの警告を受け流しながら、ぼんやりと静まり返った世界のなかに座っていた。  15 狂戦士の帰還  破滅を逃れた天界船《カーゴ》で、しかも地球への不時着に成功したものは、数えるほどしかなかった。  多くの船は、緊急発進するのが精一杯で、それ以後の航法を誤り、暗黒の宇宙をただ、かなたへと流れていったのだ。  月は、太古からの姿へと還り、醜い死相をさらしたまま、地球の夜を巡った。  そして、その呪《のろ》いによって、地球もまた色濃い死の気配におおわれていった。  居留地が、ひとつ、またひとつ、と息絶えていった。  それにしたがって、荒野の略奪団もいつしか活動力を失っていった。  核戦師団は、いぜん、最強の部隊として地上を徘徊《はいかい》していたものの、もはや、彼等の闘うべき相手は、同じ他国の師団しか残っていなかった。  彼等は、闘いの本能に導かれるまま、互いに衝突し、あるいは分裂して、自軍同士の戦闘を繰り広げ、自滅への道を歩みはじめていた。  そんなある日、見棄《みす》てられた≪月の神殿≫のプラットホームに、灼けただれた天界船が一隻、よろめくように降下してきた。  天界船はすでにエネルギーの大半を使い果たしていたらしく、ついに降下速度を下げ切れずにプラットホームに激突し、大破した。  驚き慌てて天文台から飛び出したウラジミルとカラは、天界船の残骸から、まっ黒なひとつの影が不屈の怪力をふるって這《は》い出してくるのを見た。 「おお! 何てことでしょう、ウラジミル。息子たちだわ! 息子たちが帰ってきたんだわ!」  カラは、顔中をくしゃくしゃに歪めて駆け出した。  彼女の叫び声に驚いて飛び出してきたウラジミルも、半信半疑ながら、その後に続く。 「ああ……誰なの? ヴィダル? それとも、雷?」  カラは、ようやく二本の足で立ち上がったその巨躯《きよく》にしがみつく。 「ああ……ああ……よく、もどって来てくれたわ……もう、わたしたち、完全にあきらめていたのよ。ああ……でも、やはり、ひとりだけなのね? どちらか一人は、戦いに倒れたのね? あなたは、ヴィダルなの? それとも、雷?」  激しい爆風を受けたらしく、無惨にも灼けこげたようになっているそのマスクから、彼女は、どうしても、人相を読みとることができない。  カラは、しかたなく、しきりと傷だらけの黒い筋肉をなで回し、どこかに特徴が隠されてはいないかと探しまわった。  と、彼女は急に、小さな悲鳴を上げてとびすさった。 「そ、その胸は一体どうしたの? だ、大丈夫なの? ひどく破壊されているわ……そこには、たしか、その部分には……」  黒い影が両腕を持ち上げた。  そしてゆっくりと、カラの両肩をわし掴みにした。 「あ、あなたはいったい、誰? 誰なの!?」  カラが目をむいて絶叫した。  それに応えたかのように、傷痕《しようこん》でひきつれた黒い唇が微かに動いた。 「………………dal……Vidal……………………Vidal………………」  それはまるで、人類に終末を告げる悪魔の笑い声ででもあるかのように、執拗に繰り返された。  破壊された怪物の声帯は、もはや、それ以外の音を発生させることができなくなっていたのである。 角川文庫『天界の狂戦士』昭和60年12月10日初版刊行